是枝裕和『歩くような速さで』

歩くような速さで (一般書)

歩くような速さで (一般書)

そして父になる DVDスタンダード・エディション 奇跡(通常版) [DVD] 映画監督の是枝裕和西日本新聞に連載していたエッセイをまとめたもの。映画同様、是枝監督の人間を見る目のやさしさを感じる一方で、現在の映画、テレビなどメディアのあり方、そして、日本に対する強い危機感もうかがわせる。あたりの柔らかい人であるが、その芯には強さがあるのだなあ。それでなければ、あれだけの作品を生み出せるわけがないか。当たり前かもしれないけど。執筆は「奇跡」から「そして父になる」にかけてのころで、そうした作品の裏側がを知る上でも興味深かった。
印象に残ったところを抜書きすると...

 放送を含むメディアは遊牧民であるべきだと僕は考えている。彼らの一番の役割とは、住民の暮らす世間が成熟するべく外部から批評し続けることである。それがジャーナリズムと呼ばれる立ち位置ではないかと思っている。
 特に日本のような島国で暮らす低住民の集団は、異質な者たちとの接触によって自らを成熟させていく機会に恵まれていない。かつて四方を海に囲まれていたことは海洋民を媒介にして外部に「開かれている」と捉えられていたはずなのに、いつしか海は隔たりと捉えられるようになり「島国根性」を長い時間かけて蔓延させてしまった(略)さらに悪いことに、ひとつひとつの個が成熟していないが故に集団を覆っている(外部にとっては暴力としか呼べないような)単一の価値観(島国根性)に無批判に身を任せてしまう傾向が強い。そうすることで心の平安を獲得しているような錯覚に陥っているのが今の日本社会(世間)の特徴だと思う。

 そうだなあ。自分とは異質な人を、よその国をけなすことで、自分の(小さな)プライドを満足させているようなところが最近、目立つしなあ。

 だからこそ、メディアには、定住者に対して、その村落共同体に対して警告を発し続け、覚醒を促し続ける役割を担って欲しいのだ。都市の文明の外には都市よりも広大な草原がそれこそ無限に広がっているのだ。それが世界なのだ。そこには「世間」とは異なる価値観があり、内部はその地に触れ風に吹かれることで初めて自らの世界を相対化することが出来るようになるのだ。視野が狭く、創造力に乏しい人間が内部にしか通用しない言葉で「美しい国」などと呟くのだ、と。

 最後の言葉は厳しいなあ。この人のことを言っているのか。

新しい国へ 美しい国へ 完全版 (文春新書 903)

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 まあ、言わんとしていることは、わかるけど...。いまの内向きの島国根性マックスな気分の上に乗っているというか、煽っているようなところがあるからなあ。「美しい」という言葉も、外部の人から言われる言葉であって、自ら言う言葉ではないような...。
 そしてメディアの現在について

 今の日本とそこに暮らす人々(日本人に限らず)にとって一番不幸なのは、この精神的外部にあるべきメディアが、完全に内部の世間と一体化し、その価値観に迎合し、むしろ村の外壁を補強してしまっていることにある。国家的な価値観と個人の価値観、その相互に対して批評的なポジションから接し、他者との接触の場を開くことで両者に成熟(相対化)を促すのがメディアの役割であると思うのだが、現状はメディアが外部たり得ず、国家と個人の同心円状に重なってしまっている。これは島国根性の三重苦である。(略)
 こうなると僕たちを取り巻いている環境は他者の存在しない「世間」だけになる。そこでは内部の者同士がお互いの小さな差異を見つけ出しては排除するといった?いじめ?が横行する。学校がまさに今その世間の縮図として窒息しかけているわけだ。世界の広がりは高い壁によって遮断され見ることができず、相互監視の世間だけに囲まれた息苦しさから人が逃げ出す手段が、今、自殺しかなくなっているということではないだろうか?

 メディア批判はいろいろとあるが、是枝氏の批判は本質を突いている。壁を壊すのではなく、壁を塗り固めている存在...。最近のメディアに感じていた違和感はこれだったのか。共感するところが多いなあ。
 そして、テレビについて...

 その自らの精神の拠って立つ足元の草原が見えてさえいれば、メディアに対して圧力を加えたり「命令」を下したり、恫喝したりする権力者に対しても、又世間の価値観そのものである視聴率という圧力に対しても、今よりはもう少し毅然とした態度で臨めるのではないだろうか。俺は遊牧民なのだ。お前とは立ち位置が違うのだ。なぜなら俺は存在そのものが「アンチテーゼ」であるからだ。だから価値観が違って当然ではないか、と。これは恐らく都市で「ちょっとしたお金持ち」になるよりも「厳しく難しい生き方」であるはずだ。しかし、それを「無理だ」とあきらめた時、メディア(特に放送)は、ジャーナリズムでも公共財でもなく、権力に与えられた既得権益(電波)に群がる談合組織と何ら変わらない存在に堕する。そうなった時、誰が好き好んで彼ら(だけ)の利益のために自らの姿をカメラの前にさらすような公共性を持ち得よう。

 うーん。これまた鋭い...。そうだなあ。「既得権益に群がる談合組織」かあ。言い得て妙だけど、きついなあ...。「そうなった時、誰が好き好んで彼ら(だけ)の利益の前に自らの姿をカメラの前にさらすような公益性を持ち得よう」という言葉で、ちょっと、この映画を思い出してしまった...。

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 そして、異質の価値観を見せてくれるところに映画の価値があり、是枝監督がカンヌ映画祭を愛しているのも同じ理由らしい。

 映画とその監督の出自や言語は複雑につながり、断絶している。映画の豊かな現在は、その複雑さにこそある。民族や地域や言語を横断したこの受賞作群こそが、まさにティエリー氏(カンヌ映画祭のディレクター)の考える今日的な「多様性」の体現であるのだろう。

 そして、こんな言葉も。

 映画はまぎれもなく世界言語である。多様性を背景にしながら、その差異を軽々と越境し、みなが映画の住人としてつながれるということこの豊かさ。その豊かさの前に、現住所は意味を、失う。

 何だか「クールジャパン」と言葉も、政治家や財界の人たちが使うと、輸出振興策、もっと有り体にいえば、金儲けとしての下心がミエミエで、どうも小さく見えてしまうなあ。そんな小さな国の枠を超えたところに、映画の豊潤な世界が拓けるという感じがするなあ。
 全体的には、さらっと読めてしまうエッセイ集で、樹木希林原田芳雄、まえだまえだの俳優論から映画の裏話や是枝監督の家族の思い出まで楽しめるのだが、その一方で、ずっしりと重い問題提起を含んだ話も入っている。このあたり、是枝監督の映画と同じかな。安易な結論を出さず、観客に考えさせる。本の場合は読者だけど。