渋沢栄一『渋沢栄一、「岩崎弥太郎」を語る』を読む
渋沢栄一、「岩崎弥太郎」を語る: 付:古河市兵衛、新撰組、浅野総一郎 渋沢栄一、幕末・維新を語る
- 作者: 渋沢栄一
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日本での株式会社づくりのパイオニアであった渋沢は、岩崎とは気が合わなかったらしい。こんな具合。
三菱の先代岩崎弥太郎氏は、多人数の共同出資によって事業を経営することに反対した人である。多人数寄り集まって仕事をしては、理屈ばかり多くなって、成績のあがるものでないという意見で、何でも事業は自分一人でドシドシやっていくに限るという主義であった。したがって私の主張する合本組織の経営法には反対したものだが、それだけまた部下に人材を網羅することにはかえって骨を折り、学問のある人を多く用いたものである。
渋沢は「弥太郎氏の何でも自分がひとりだけでやるという主義に反対であったものだから、自然と万事に意見が合わなかった」という。渋沢が大蔵省を辞してから、交際するようになったらしいが、それでも二人は合わなかったらしい。
しかし根本において私とは意見が違い、私は合本組織を主張し、弥太郎氏は独占主義を主張し、その間に間隔があったので、ついにそれが原因になり、明治12、3年以来、激しい確執を両人の間に生ずるに至ったのである。
最後まで、ふたりは対立していたのだ。渋沢を取り巻くグループが岩崎弥太郎を激しく批判するものだから、さらに関係が悪くなったらしい。ただ、弥太郎が亡くなってからは三菱財閥(岩崎家)との関係は改善したという。幕末を生き残り、明治を創った先駆者のふたりは、ともに頑固だったんだなあ。渋沢は幕臣であり、岩崎は薩摩ということも関係していたのだろうか。
古河については、誠実で、孝悌の心の厚い人だというのだが、こうも言う。
古河市兵衛氏は、元来学問のない人であったから、あまり高い見識のなかったもので、何事を観るにも低い立場に立って観るを例とし、官尊民卑の思想が浸み込んで、死ぬまでこの思想が抜けきらず、官吏に対してはお辞儀ばかりして暮らしていたものである。
うーん。何だか厳しいなあ。
一番、興味を惹くのはやはり近藤勇。渋沢は一橋(徳川)慶喜に仕えており、新選組の近藤、土方歳三とも関係していたらしい。近藤勇と初めて会った時の印象はこんな感じ。
会ってみると存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河のおもむきなどはなく、よく物のわかる人であったのだ。しかし近藤はあくまでも薩摩を嫌いな人で、薩州人とはともに天を戴かざる概を示しておったものだから、薩州人に対してのみは過激な態度を取ったりなぞしたので、一見暴虎馮河の士のごとくに世間から誤解せられるるようにもなったのである。
近藤勇にはやさしい。明治は薩長の世の中だったのに、渋沢は本音を隠さないのだなあ。
新選組については、こんな表現もしている。
申さば頭山満氏の率いておった玄洋社の壮士が、警視庁の直属になったも同じようなものゆえ、新撰組が幕末にあたって勢力をふるったのは当然で、また、ためによく京都警護の任も尽くし得たのである。
渋沢は新選組も近藤も評価していた。で、その例に頭山満と玄洋社を出すということも、こちらも高く評価していたということなんだろう。
ともあれ、古沢座談といった感じで、さくっと読めてしまう。勝海舟もそうだが、この時代の人は、求めに応じて、こうした座談を多く残しているんだろうか。
- 作者: 勝部真長,巌本善治
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