スコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」(村上春樹訳)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

 なるほど、これは名作だ。今まで何度か読みかけて、読み通せなかったスコット・フィッツジェラルドの代表作「華麗なるギャツビー」。村上春樹の手で「グレート・ギャツビー」として新訳となって出たわけだが、この村上版ギャツビーを読んで、その素晴らしさがわかった。村上春樹の小説のように思えてしまうぐらい、村上の文体になってしまっていて、翻訳と言うより、フィッツジェラルドと村上の共作ではないかと思ってしまったりもするのだが、ともあれ、今回は最後まで読めた。正直言えば、2章の初めあたりで、ちょっと乗り切れないと思ったときもあったのだが、そこを乗り越えると、あとは一気呵成だった。仕事で読まなければならないものがあったのだが、そっちのけで、この小説を読んでいた。
 登場人物たちはいかにも米国的。アメリカン・ドリームを追い続けて、その果てに裏切られて、崩壊していく。また、求めていたものに、それほどの価値があったのか。トムとデイジーは、無邪気で無分別で、周囲を傷つけ、それに気がつかないし、後ろめたさもない。帝国と化した米国そのもののよう。トムには、ブッシュの姿が重なり合う。そんな現代的なアナロジーもできるぐらい、小説のキャラクターに米国が凝縮されている。1925年というローリング・トウェンティ、バブル化しようとする米国の繁栄の中で執筆されたものなのに、その後の崩壊を予感しているようでもある。出版当時、期待したほど売れず、フィッツジェラルドは落胆したらしいが、誰しも自分の姿を見るのは嫌なもの。売れなかったのもわかる。一時は絶版になったとも言う。この小説が受け入れられるようになるには、米国が知的に成熟する必要があったのだろう。
 村上春樹の訳書あとがき「翻訳者として、小説家として」もなかなか読ませる。「グレート・ギャツビー」の翻訳は村上本人としても、満を持しての自信の翻訳と言うが、それだけ自負するのもわかる。原文と翻訳を比べてみたい気がしてくる。久しぶりに、小説を夢中で読んでしまった。