村上春樹「走ることについて語るときに僕の語ること」

走ることについて語るときに僕の語ること

走ることについて語るときに僕の語ること

 村上春樹が「走ること」を通じて創作について語るメモワール。どのようにプロの小説家になったかが、走ることとともに語られる。タイトルは、村上が翻訳しているレイモンド・カーヴァーの「愛について語るときに我々の語ること」(What We Talk About When We Talk About Love)から来ている。しかし、村上春樹はフルマラソンやら、トライアスロンやら、本格的に走っていたんだなあ。面白かったのは、北海道で100キロマラソンを走った話で、75キロを過ぎたあたりから

変な話だけど、最後のころには肉体的な苦痛だけではなく、自分が誰であるとか、今何をしているだとか、そんなことは念頭からおおむね消えてしまっていた。それはとてもおかしな気持ちであるはずなのだが、僕はそのおかしさをおかしさとして感じることさえできなくなっていた。そこでは、走るという行為がほとんど形而上的な領域にまで達していた。行為がまずそこにあり、それに付随するように僕の存在がある。我走る、故に我あり。

 宗教の世界だなあ。しかし、そうなんだろうなあ。比叡山の千日回峰というか、密教の修行というか、究極まで肉体を痛めつけた果てに違う世界が見えてくるんだろうなあ。それは、ともかく、村上春樹という人は勤勉な人だなあ。走ること、生きること、創作することが重なり合う。生きるリズムを大切にするんだなあ。怠惰な性格なんで、これを読んで、さあ走ろうとは想わないけど、どこかで生きるリズムをつくるのはいいな、と思う。