若泉敬「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」

他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉

他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 〈新装版〉

 沖縄返還秘密交渉の記録。当時、京都産業大学教授だった若泉氏は佐藤首相の密使としてニクソン政権のキッシンジャー補佐官と交渉、核密約を結ぶことに関与する。鳩山政権下、普天間問題が迷走を始めたときに、まず思い出したのが、この本だった。以前から興味を持っていた本なのだが、何しろ2段組で600ページを超える大著とあって、ちょっと敬遠していた。しかし、雑誌のコラムで若泉敬氏が自殺していたことを知り(最近まで知らなかった)、読み始める。佐藤日記、ニクソンキッシンジャーの回顧録、公開された公文書などの資料も豊富で読むのは大変だが、死を覚悟した人が書いた本だけあって、文章に魂がこもっている。
 先日、NHKスペシャルで「密使・若泉敬沖縄返還の代償」*1という番組をやっていたが、本を読んでみると、この番組で描かれた内容は、NHKの取材が言いたい内容で、若泉氏が今の日本に問いかけている問題に対して真正面に受けていない感じがした。日本は安全保障をどう考えるのか。世界とはいわずとも、アジアの安全保障にどう寄与するのか。それを真摯に考え、答えを出さなければ、沖縄の犠牲はいつまでも変わらない。この本を読むと、若泉氏はそう問いかけているように思える。
 この本で冒頭に示されるのは、沖縄の基地問題はアジア、とりわけ朝鮮半島の有事問題であること。沖縄の基地は日本のためというよりも東アジアの安定のために不可欠という思想で、米国政府関係者が当初、沖縄からの核撤去さえ困難とした根拠は以下のようなものだった。

(1)朝鮮半島で、万一北朝鮮が侵略を意図し、かつ現実にそれを試みた場合、沖縄からアメリカが韓国防衛のため核を使うかもしれぬという危惧を平壌にもたせるという抑止効果がありうる。そしてソ連、あるいは中国も北朝鮮に対して「だから南への攻撃は止めておけ」と説得するかもしれない。
(2)核を撤去することが、北朝鮮や中国に与える心理的効果、つまり、アメリカがアジア・西太平洋から撤退する第一歩であるというように受け取られる虞れはないか。
(3)ペンタゴンでも軍部は、核のオプションをぜひ残しておきたいと強く望んでいる。

 しかし、核についての考え方はその後、変化する。しかし、朝鮮有事における米軍基地の重要性は変わらなかった。日米の政・官・学・軍の専門家を集めて1969年に開かれた「沖縄およびアジアに関する日米京都会議」での議論は、こんな具合だったという。

 専門的に言って、沖縄に核を置く必要性は殆どなくなっているという日本側の主張に対し、ウォールステッター(シカゴ大学教授)、シェリングハーバード大学教授)等米側の核の専門家からの反論もなく、シェリングはむしろ、(1)沖縄の核体系はすでに他の新しい戦術体系で代替されている、(2)アジアの局地戦では、戦術核兵器は効用がない、(3)核付きで沖縄に返還することは、一種の核拡散であり、NPT(核拡散防止条約)の精神に反するという議論を展開し、米国として必要なことは核の潜在権を保持することだと述べた。要するに米軍としては、緊急の際に、持ち込もうとすれば持ち込める事になっていればよいということのようだ。
 (沖縄における米軍基地の)自由使用の問題も、(日米安保条約の)事前協議の弾力的な運用で十分カバーできると思う。米側は、事前協議事項の手続きをふんでいたのではクイック・レスポンスの必要な緊急時に間に合わないという軍部筋の見解を強調していたが、この種の問題だけなら、ホットライン式の導入など技術的な角度からの検討でなんとか解決できる筈だ。
 米側の頭の中には、朝鮮半島での紛争が再発したときこれにどう対応するかという問題がある。もし北からの攻撃があった場合、二個師団の在韓米軍を支援するため、日本は何をしてくれるだろうか、というのが米側の最大の関心事である。日本政府は安保条約に基づいて在日米軍の基地を積極的に容認してくれるだろうか。もしこれが確実に保証されるなら、沖縄基地の自由使用問題は大したことではなくなるという考え方のようである。

 この京都会議の議論のように、朝鮮有事における核の持ち込み、基地の自由使用が議論として残り、最終的に文書による保証を求められ、密約を締結することになってしまったという。結局のところ、根本にあるのは、日本がアジアを含めての安全保障をどう考え、何を負担するのか、というところに返ってくる。そこがいまだに固まらない結果、「沖縄基地の自由使用問題は大したことではなくなる」という結末に至らず、いまにいたるも沖縄一県に負担を押し付けることになってしまった。この「日本は自分の安全保障をどう考えるのか」が若泉の問いでもあるのだが、このあたりは微妙な問題でもあり、番組は避けている印象があった。
 NHKの番組では、米国は沖縄返還のかわりに、基地の無期限自由使用を最大の目標としていたというが、若泉の本を読むと、それ以上の問題は、日米繊維交渉だった。米国南部に地盤を持つニクソンは、地元の有力産業である繊維を保護するために日本産繊維製品の輸入規制を公約としていた。ニクソンが抱える内政問題に配慮し、佐藤首相は日本の自主規制を約束することになる。沖縄返還と繊維の自主規制はセットの取引で、こちらにも密約があったようだが、それは若泉氏にとっては語るのも汚らわしい話だったようで、この本で繊維交渉の詳細は語られていない。ただ、日本は日本で繊維メーカーは当時、影響力の大きな産業で、自民党政権としても、自主規制の約束をなかなか履行せず、ニクソンと佐藤の関係も悪化する。この結果、米中国交回復にあたって米国が日本に事前連絡をしないという「事件」も起きる。NHKの番組で、沖縄返還交渉成立後、若泉と佐藤の関係が悪化していったとリポートしていたが、本を読むと、それは沖縄問題というより、日米繊維交渉の処理をめぐる問題の方が大きかったのではないかと思えてしまう。
 NHKでも紹介されていたが、若泉は日本の現状を「愚者の楽園」と批判する。それは、こんな具合、

 ここで敢えて私の一辺の赤心を吐露させて頂くならば、敗戦後半世紀間の日本は「戦後復興」の名の下にひたすら物質金銭万能主義に走り“愚者の楽園(フールズ・パラダイス)”と化し、精神的、道義的、文化的に“根無し草”に堕してしまったのではないだろうか。もしもそうだとするならば、このような“悲しむべき零落”から再起し、国際社会での生存要件たるそれ相応の信頼と尊敬を受けるために、今の日本と日本人に求められている内なる核心的課題とは一体何なのであろうか。一言にしていうならば、それは、ホイットマンの魂の琴線を揺さぶり、“世界的日本人”新渡戸が一世紀近く前に訴えた、あの“真の武士道”の伝統に深く念い(おもい)をいたし、それを明日の行動の指針とすることではないだろうか。

 沖縄返還交渉は1969年で、それから40年近くがたった。それでも、なお日本の安全保障に対する真摯な議論はない。米国が疑問を持った、朝鮮有事の時に日本はどうするのか、という問いについても、いま国民的合意があるかというと、あやしい。一方で、日本としての答えを持っていないから、天安艦事件が起きて、朝鮮半島情勢が緊迫すると、米軍にお任せしますになり、日本が担う役割をすべて沖縄一県に押し付けてしまう形となり、本土でも基地問題に関する議論は事実上、雲散霧消してしまう。「愚者の楽園」という言葉は、沖縄を除く日本に向けられた言葉だと解した方がいい。日本自身が自分の頭で地域の安全保障を考えるようにならなければ、沖縄だけに過剰な負担を押し付ける状況は改善しない。このあたりについて、NHKの情緒的にも見える番組は触れていなかった(この問題、下手に取り上げると、妙に右翼的議論になってしまいがちなので、難しいことはわからないではないが、安全保障・軍事を語ると「右翼」というのもステレオタイプで)。
 最後に、印象に残った一節。

 一国の外交の総括者として、そして全軍の司令官として、どのように平凡な人間であれ、彼が首相あるいは大統領の職務に就くやいなや、その国の運命と国民の安危が自らの双肩に重くのしかかってくるのである。その重みは、おそらく、どのように凡庸な政治家でさえもが身震いするほどのものであるはずだ。
 史実が示すように、決定的な時機に際しての彼の一言が無数の人命を奪うかもしれない。彼の一瞬の錯乱が、その国を歴史の闇のなかに葬り去ってしまうかもしれない。そのことのみで、内閣総理大臣と、他の閣僚をはじめとするすべての政府要人、あるいは与野党の指導者との間には截然たる一線が画される。そのことの重みは、他社からは完全に窺い得ないものなのかもしれない。

 佐藤首相については毀誉褒貶があり、のちに日米繊維交渉では若泉も裏切られるが、それでも、米国に対して最初から弱腰で悲観論の外務省を指導し、沖縄返還の「核抜き・本土並み」を実現したのは佐藤だった。それに比べると…。鳩山・前首相は「凡庸な政治家」でさえなかったわけで、若泉流に言えば、21世紀の日本は「愚者の楽園」にふさわしい首相をもったことになる。沖縄の問題にスポットライトを投じる役割は果たしたかもしれないが。
 ともあれ、この本、沖縄問題を考えるときの必読書のひとつだろう。