ダニエル・スタシャワー「コナン・ドイル伝」

コナン・ドイル伝

コナン・ドイル伝

 「シャーロック・ホームズ」で有名なコナン・ドイルの伝記。冒頭、コナン・ドイルの死後、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで予定されていた講演会にドイルの霊が現れるかどうか、遺族も含め6000人の観衆が待っているところから話は始まる。ドイルは熱烈な心霊主義者でもあったのだ。事実と論理を信奉するホームズと霊魂や妖精を信じるドイル。「最後の事件」で一度、シャーロック・ホームズを殺してしまったのはなぜか。索引も含めると568ページという、この分厚い伝記は、そんなドイルの人生を様々なエピソードを含めて教えてくれる。
 面白かったエピソードをいくつか、拾ってみると…
 シャーロック・ホームズのキャラクターのモデルはエディンバラ大学医学部の恩師、ジョゼフ・ベル教授。ホームズの観察眼鋭い論理的推理法は、ベルが患者治療にあたっての心得として学生たちに教えていたものだった。ドイルは、ホームズの盟友、ワトソン君と同じく医師だった。
 パイプをくわえた痩身、鷲鼻のシャーロック・ホームズという現代に至るイメージは小説の挿絵から確固たるものになった。このモデルは「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」誌の挿絵画家、ウォルター・パジット。編集者が間違って兄のシドニー・パジットに挿絵を依頼してしまい、兄は弟のウォルターをモデルにホームズを描いたのだという。
 次に「シャーロック・ホームズ」シリーズ誕生に関するエピソード。

 ドイルは長篇小説を書くことにほとんどのエネルギーを費やしてきた。初期の頃から書いてきた一貫性のない作品群では、作家としてのキャリアにならないと考えたからだ。だがいま、ウィンポール街から出版の世界を眺めてみた結果、彼は再び方向を変えることにした。ひとりの主人公を変えずに短篇小説をシリーズで書くことが、なんらかのプラスになるのではないかと思ったのだ。そうすれば読者は、シリーズ中の一話をとばしても興味を失うことがなく、これまでの連載小説に比べて有利なのではないだろうか。(中略)「中心となる主人公をあれこれ考えた末、シャーロック・ホームズならすでに二作*1書いているので、短編の連続物に仕立てやすいだろうと思った」とドイルは書いている。

 作家としてのキャリアをどう築くか悩んだドイルのマーケティング的発想から一連のホームズ物は誕生したというのだ。この短編連作の手法は現代の出版界でも続いているわけで、ドイルは出版マーケティングの偉大なイノベーターでもあった。
 「最後の事件」でドイルがホームズを殺すと(のちに復活するのだが)、世間は大騒ぎになり、ドイルのもとには怒りの手紙が殺到し、ファンに襲われる事件もあったという。一方で、この時期、最初の夫人は不治の病、結核にかかり、父チャールズの死にも遭遇する。

 『最後の事件』でシャーロック・ホームズの死を世界に公表したときのコナン・ドイルの気持ちはなかなか世界にわかってもらえなかった。イギリスから遠く離れていたので、国民の強い憤りは直接彼に届かなかった。だが遠く離れていても、ドイルは信じられないという感情を抱かざるをえなかった。父親が死に、妻が死にそうな状態にあるのに、大衆は彼の不幸に気づかずに、小説の主人公が死んだことに激しい抗議の叫びを上げているのだ。ロンドンの新聞の死亡記事には、チャールズ・ドイルの逝去は出なかった。一方シャーロック・ホームズの運命は世界中の新聞の見出しを飾った。

 バーチャルがリアルを超えてしまった。こうした状況になったら、何が現実で何が現実でないか、わからなくなってしまうかもしれない。
 ともあれ、全編エピソード満載。オスカー・ワイルド、「ピーター・パン」の作者であるジェームズ・バリー、バーナード・ショウとの交友をはじめ、有名なアガサ・クリスティ失踪事件にあたっての心霊術をつかった捜査、心霊術に懐疑的な稀代の奇術師、フーディーニとの心霊現象真贋対決など、ここだけ切り取っても映画になるのではないかと思う。フーディーニは、心霊術と同じことを奇術で再現してみせたというから、このあたり「トリック」の山田奈緒子の元祖ともいえる。
 ドイルというと、ホームズもの以外で、他に思い出す作品というと「失われた世界」ぐらいなのだが、本人は歴史小説に力を入れ、冤罪事件の告発、ボーア戦争への従軍と英国政府批判など、社会活動にも力を入れていた。シャーロック・ホームズは、論理的な推理小説という新しいジャンルを切り開くという野心はあったものの、一度死んだホームズを復活させたことも含め、ドイルにとってはビジネスだったところがある。
 この本は、ドイルが死ぬ数日前に取材した記者の言葉で終わる。ドイルの熱烈なファンだった記者は、これまでの作品について語り合ったのだが、そこで、シャーロック・ホームズの名前は出てこなかったという。
 ドイル自身の最後の言葉は妻に向けて
 「きみはすばらしい」
 幸福な人生だったのだろう。心霊主義者だったので、霊魂として永遠に妻とともに存在することを確信していたのだろうし。

*1:「緋色の研究」「四つの署名」