三島由紀夫没後40年。心に残るは、あの三島の予言

 三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊で自決してから今日で40年。産経新聞のサイトに、文芸評論家の富岡幸一郎氏が『三島由紀夫没後40年 「果たし得ていない約束」が現代に問いかけるもの』を寄稿していた。時を経るごとに重みを増すのは、三島が最後のエッセー「果たし得ていない約束」に書いていた次の一節。富岡氏もここを寄稿の最後に持ってきている。

 「私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする」という書き出しで始まるこのエッセーは、戦後民主主義を「偽善」として激しく拒否。一方で、「それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながらそこから利得を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている」との複雑な心情を告白する。三島が見通した日本の将来は、きわめて悲観的だ。「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」。そして、4カ月後の事件を暗示するかのような戦後社会への決別の辞を続けてエッセーは終わっている。

 この三島の予言は不気味なぐらい現在の日本に当てはまっている。「否定しながら、そこから利得を得」という言葉も痛烈だなあ。右からでも左からでもどこからでも、体制を批判しながら、利得を得るという「批判」の構造は今も続く。それを「心の傷」として自覚できるかどうかが大切なんだろうけど、ともあれ、右にも左にも痛烈な批判になっている(本気の「右」も本気の「左」もいないじゃないか、という批判でもあるんだろうが)。三島の場合、どうしても、切腹とか肉体美の誇示とか、その奇矯な行動の方に目が行ってしまいがちなのだが、もう一度、三島の言葉の方に耳を傾けてみるべきかもしれない。40年たって、その言語だけを冷静に評価できる歳月もたったし。