梅棹忠夫編『日本文明77の謎』

日本文明77の鍵 (文春新書)

日本文明77の鍵 (文春新書)

 梅棹忠夫ほか5人の著者による、77のキーワードで語る日本文明論。著者によって切れ味が異なってくるところもあるが、総じて面白かった。日本の成り立ちとともに、いま起きていることの意味をもう一度考えるきっかけになるも1冊。77のキーワードは「群島」「森林」「四季」といった自然条件に始まり、「高度経済成長時代」「ニュータウン」「情報」に至る。現代よりも明治維新ぐらいまでのところが面白い。
 で、いくつか印象に残ったところを抜書きすると...

 米は日本では、通貨としての性格もおびていた。8世紀の日本は68の地方行政区にわけられていたが、各行政区はその地の米の生産量によって評価されており、徴収される税も米が中心だった。江戸時代には行政区はさらに細分化されたのであるが、行政区の格づけはやはり米の産高で評価されており、大名およびその家臣の武士たちの俸給も、基本的には石高という米の量で表示されていたのである。
 しかし、一方では国の流通機構をにぎる商人階級のあいだでは、中世ごろからすでに貨幣経済にうつっていた。その結果、日本では農民―武士という米経済と、商人―職人の貨幣経済が関連をもちながら併存していたのである。

 この2つの経済文明の対立の構図は今も続いている感じがする。農民・政治家・官僚vs産業界・都市住民。この両社の利害対立はDNAに根付いてしまっているのかもしれない。TPPをめぐる対立も日本文明の中の2つのDNAが絡み合い、複雑化するのかも。
 次に「律令」について...

 日本に律令制が導入されたのは7世紀中葉である。そのころ、朝鮮半島に戦乱がおこり、日本は中国とともに介入して兵をおくった結果大敗し、いつ大陸からの侵略がはじまるかわからない緊迫した状態に追いこまれた。そのため、従来の不安定な豪族連合的性格をもっていた大和政権を、天皇を中心とする中央集権化して、まとまりのよい強力な国家にたてなおす必要が生じ、当時の唐王朝の「律令制」をほぼそのまま借用したのである。その内容は、当時の日本の社会状態からくらべると、複雑で高度なもので、中国でも完全には実施できなかったほどの非現実的なものだった。その思想や運営をささえたのは、本国に失望したり、あるいは政治的に追放されて日本にうつってきた知識人だったのである。

 注目をしたのは最後の部分。第二次大戦に敗れた後、マッカーサーが連れてきたニューディーラーたちが米国で果たせなかったような制度改革まで日本で実施しようとしたことを思い出してしまった。本国での夢を日本で、というのは米国人が最初ではなかったのだ。
 続いて「文書」...

 土地と文書に関して、中世の武士には「一所懸命」と「安堵」ということばがつきものであった。これらは今日でもひろく使用されている。前者はいのちがけでするという意味だが、「一所」というのは一カ所の土地、すなわち武士の領地をさしており、本来は武士がいのちがけで土地をまもることを意味していた。一方、「安堵」は今日では安心するという意味でつかわれるが、もとは領地の所有権が公認されることであった。「一所懸命」と「安堵」というふたつのことばでもちいるならば、武士は生活のたのみとするひとつの領地をいのちをかけてまもり、主君からその所有権をみとめる文書「安堵状」をあたえられ、ほっと胸をなでおろしたのであった。

 なるほど。「一所懸命」の由来は知っていたが(だから「一生懸命」ではなくて「一所懸命」)、「安堵」のほうは知らなかった。こちらも武士から発生していたのか。
 次に「儒学」。儒学江戸幕府の公認思想だったのだが...

 幕府は、ほかの系統の学問を否定しようとはしなかった。日本の古典研究である和学(国学)、オランダ医学を中心とする西洋学(蘭学)なども、それが幕府批判にならないかぎり容認していたのであり、藩のなかには積極的に儒学以外の学問を奨励していたところもあった。

 これを読んで、中国で聞いた話を思い出した。「ここ(中国)では、共産党の批判でない限り、何でも自由なんです」――中国政府と共産主義は、江戸幕府儒教なんだろうか。ほとんどのことは自由だが、いったん、政府批判と判断されると、獄につながれる。その容赦のなさは今回のノーベル平和賞に象徴されている。江戸幕府中国共産党政権、何となく似ているかもしれない。
 さて、この次に「趣味」。江戸時代は「趣味」の時代だったとして...

 江戸時代の大衆の趣味は、共通して「お稽古ごと」という特色を持っていた。(中略)「お稽古ごと」という以上、それは、なにか具体的・実用的な目的を前提とするものではない。たしかに、「お稽古ごと」でならいおぼえた知識や技術が、実生活のうえで役にたつ場合がないではなかったが、それはあくまでも「芸が身をたすけるほどの不仕合」なのであって、「お稽古ごと」は「お稽古ごと」として完結するのが理想とかんがえられていた。

 江戸時代は高度サービス産業社会だったのだな。低成長時代のモデルかも。
 次に「出版」の項目で、江戸時代のベストセラーの部数はどのぐらいだったか。

 その後の版木印刷の出版物にしても、やはり印刷上の制約があって、今日からみれば、発行部数はたかがしれたものであり、通常、初版は200−300部にすぎなかったとみられる。それでも活字印刷の数十部にくらべれば、おおはばな増加といえよう。これがベスト・セラーになると数千部ないし一万部ちかくまで増刷されることになった。

 1万部は結構な部数。最近は出版不況だし、現在でも、そこまで行かないうちに終わってしまう本は多いかもしれない。
 最後に著者でいうと、小山修三、谷直樹、守谷毅、園田英弘の各氏の担当部分が面白く、それに比べると、米山俊直氏の部分は知的刺激に乏しく、飛ばし読みしてしまった。