永原慶二『富士山宝永大爆発』

富士山宝永大爆発 (集英社新書)

富士山宝永大爆発 (集英社新書)

 富士山の脇腹に宝永山をつくった宝永4年(1707年)の富士山大爆発の記録。噴火の記録というよりも、その後の周辺地域復興の記録といったほうがいい。
 この本を読むと、富士山の噴火は記録に残っているところで、800年(延暦19年)、864年(貞観6年)、1083年(永保3年)とあって、宝永の大噴火はほぼ600年ぶりだった。噴火の前には巨大地震があって、1703年(元禄16年)11月に関東地方にM8.0〜8.2の巨大地震と大津波、さらに1707年(宝永4年)10月にもM8.4の地震・大津波が東海、南海、西海道地方を襲っていた。そして同ん11月23日の富士山大爆発となる。東日本大震災のあとだけに、このあたりの嫌な感じだなあ。864年の噴火の際は、869年(貞観11年)に福島原発でも話題になった貞観三陸地震・大津波が起きている。前後関係は違っているが、10年ぐらいのレンジで見ると、大津波を伴うような巨大地震と富士山の噴火は連動しているように見えてしまう。
 このあたりは年表を見ての感想で、本書が主眼を置くのは冒頭にも書いたように、復興の過程。噴火の結果、2メートルを超える降砂があった地域もあるというから凄まじい。今回の大津波同様、一夜にして村落を壊滅させてしまうような大災害が発生したという。こうした大量の火山灰の結果、田畑が壊滅的な打撃を受けたほか、河川の氾濫などに苦しむことになる。村落の復興普及には数十年の歳月を要している。また、この間の復旧工事では汚職も発生したようで、このあたりは古くて新しい話。未曽有の大災害に直面した小田原藩が、被災民救済、復興・復旧のための資金を賄いきれず、早々にギブアップ。小田原藩領を幕府に返し、藩領から幕領にして再建を進めたという話は、何だか東京電力を思い出してしまう。幕府から住民救済のために拠出されたカネのうち、住民jに渡ったのは一部で、かなりのカネが消えてしまったというのも、どこか今を思わせる。人間と組織は変わらないのだな。だから、歴史は面白いし、教科書となる。
 で、内容を目次で見ると...

第1章 620年ぶりの大爆発
第2章 その日からの飢餓と訴願
第3章 幕領に切り替える
第4章 御厨地方、自力砂除の苦難
第5章 伊奈忠順の御厨巡検と砂除金支給
第6章 復興の道遠く
第7章 生き残りをかけた入会地紛争
第8章 酒匂川川筋一変
第9章 田中丘隅と文命堤
第10章 蓑笠之助の不振と足柄復興への道
第11章 終りなき御厨地方の苦闘
第12章 終りに

 富士山の噴火自体は11月23日から12月8日まで2,3週間のことだったらしいが、降砂の被害は甚大だった。村落の中には「亡所」(廃村)も出るのではないかと思われたが、最終的には亡所は出なかったという。復旧・復興を支えたのは地元の人たちだった。中央政府、地方政府は頼りにならなくても、生き抜き、地域を再建する。それこそが何百年も前から日本の強さだったのだ。