小澤富夫『家訓』
- 作者: 小沢富夫
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1985/04
- メディア: 文庫
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大将たる者は、威厳というものがなくては、万人を制することはできぬ。しかし、ことさらに我が身の威厳を保ち、人びとを押えつけようとする誤った心得は、かえって大害となる。なぜならば、ただ人びとに恐れられるように振舞うのが威厳だと心得、家老に会っても、威厳を振い、つまらぬことにまで目にかどを立て、言葉遣いもあらく横柄で、我儘に振舞うため、家老も諫言をせず、自然と身を引くようになる。家老でさえこのようになれば、まして家臣以下の人びとに至っては、ひたすら恐れずおののくだけで、主君への忠義の志をもつ者もなく、身構えばかりして、一心に奉公を勤めることはない。このように、高慢で人を侮り軽んずるため、家臣万民も主君をいみ嫌い、その結果、必ず家を失い、国も亡ぶものである。よくよく心得るべきである。真の威厳というのは、第一に自分自身の行儀を正しくし、理非賞罰を明確にすれば、無理に人を叱り、恐れさすこともなく、家臣万民はすべて主君を敬い畏怖して、上を侮り法を軽んずる者もなくて、おのずから威厳は備わるものである。^
うーん。いまの社長さん、政治家の方々に読んでほしい。というか、トップの心得はかわたないということだなあ。勘違いをしている人は多い。辞めることになった大臣さんも、知事に会っても、威厳を振い、つまらぬことに目にかどを立て、言葉遣いもあらく横柄な態度をとらなければ、涙目で辞任会見をするようなことにはならなかったのではないか。
続いて、「鍋島直茂御壁書二十一カ条」から...
大事なことの思案は、常日頃に少しのこともよく分別しておいて、軽くすみやかにすることである。
危機管理の鉄則ですね。決断力の養い方ともいえます。
物ごとは、書物に書かれている文字のままに心得ると、はずれることがある。書物をよく理解して、その意(こころ)の深いことを知るべきである。
そうだなあ。現代で言えば、書物だけではなくて、テレビも、雑誌も、ネットも。
鬮占(きせん、古代中国の亀卜、ここではお御籤や占い)は、運次第で吉にも凶にもなる。それゆえ、何か物事を決断するとき、鬮占を用いてこれに頼ると、はずれることが多く、何の益もない。
決断にあたって神頼みするな、という教えだが、「はずれることが多く、何の益もない」と言い捨てるところに妙にリアリティがあるから、この家訓を残した本人は結構、試してみたのかもしれない。こうしたところも家訓を読む面白さ。
何事も、気遣いすぎて果敢に行なわないと、十のうち七つは悪い結果となるものである。
これまたリアリティがある。
武士道とは、時にあたっては分別もなく、粗忽なるものである。しかし、平生粗忽ばかり用いれば、身を亡ぼす媒(なかだち)となる。
これも現代の志士気取り、武士気取りの人たちに当たりそう。これは政治家や作家、ジャーナリスト、評論家に多いか。
人は、下の者ほど苦労していることを、上に立つ者は、よく心遣いすべきである。
これはリーダー全員にいえる話。ということで、鍋島直茂の家訓は現代でも参考になる。
続いて、「藤堂高虎遺書」から...
常によき友人と語り合い、意見をしてもらうべきである。人間の善悪は、その友によると云われる。悪しき友人というものは、何事にも誉め、意見がましいことも云わぬものである。こうした人は、心の正しくないへつらう人であるので、友として仲よくすべきではない。
鳩山さんとか、小沢さんには「よき友人」がいるのだろうか。何事にも誉め、意見がましいことをいわない友人ばかりではないかと心配。
身分の上下を問わず、立派な人物であれば、たとえその人におよばずともこれを真似、決して悪しき人の真似をしてはならぬ。
上下を問わずがポイントですね。で、家訓の中にはこんなものも...
他人のもてなしには、不作法であってはならぬ。ただし、遠慮のない所へ招かれたときにも、いつまでも酒を飲むべきではない。
昔から酒で失敗してしまう人がいたのだなあ。さらに、こんな愚痴みたいなものも...
主君より御尋ねあった折は、直ちに参上すべきである。虚病といつわりつくろわず、また、気ままな心持ちであってはならぬ。
要するに、上司に呼ばれても、すぐに行かない。それどころか仮病で休む。出ていっても、何の準備もしていなくてチャラチャラしているみたいなことが武士の間でもあったということなんだろうか。何だか、具体的な出来事をイメージして書いているようにも読める。一方で、こんな教えも...
算用の道を知らぬことは、何事についてもよくない。算用を常に心がけるべきである。
いやあ、数字のことはわからなくて、などと言っているリーダーはダメ、ということ。
次に「井伊直孝遺状」から
家臣を召使う場合、その侍の善悪次第によって召使われるべきであり、普代・新参の分け隔てなく扱われること。一心に奉公する者がいても、贔屓がなければ主人の目にとまらず、遅れて知ることが多いものである。こうしたことは、ことに残念なことである。また、さほどのとりえのない者でも、取りなしてよきように処遇してやり、人並みの奉公もできない者であっても、その善悪を選びだして、ほどよく召使うことが、大将の手柄であると昔から申し伝えられている。軍功のことは云うに及ばず、平生の奉公においては、少々のことでもその身分相応に留意すべきであって、これをそのまま放置しておけば、奉公人は気力を無くしてしまうものである。
これも深い。間違った実力主義人事をやっている会社には参考になるかも。能力主義と言いながら、減点法で人件費カットのほうにばかり目を向けているような会社は元気が出ないんだよなあ。加えて、「贔屓がなkれば主人の目にとまらず」は、サラリーマン社長の会社でも、あいつは同じ部署にいたから知っている、知らないで人事が決まったりするところもあるから、このあたりも昔から経営者が気をつけなければいけないポイントなのだな。経営者は社内でも意図してタレント・ハンティングをしなければいけないと。
そんなこんなで、家訓の拾い読みというのは楽しめる上に、今を考える手がかりになる。そして、日本って変わらないなあ、という気持ちにも。