鈴木邦男、川本三郎『本と映画と「70年」を語ろう』

本と映画と「70年」を語ろう (朝日新書 110)

本と映画と「70年」を語ろう (朝日新書 110)

 新右翼の論客と、かつて新左翼シンパの評論家。その交差することなさそうな二人の対談ということがまず面白い。このふたりが、ともに70年代に新聞社に勤め、当時の政治状況から生れた左右両極の事件に絡んで逮捕され、解雇されるという共通の過去を持っていたとは知らなかった(川本三郎の『マイ・バック・ページ』は読んで、朝霞事件のことなどは知っていたが、鈴木邦男産経新聞にいたことがあるとは知らなかった)。また、その本を川本三郎を懲戒免職にした朝日新聞社が出すというところも、既に事件が歴史になってしまったことを思わせる。
 内容は、そのタイトルとおり、本と映画と「70年」をめぐる対談なのだが、面白いのは、本と映画よりも、ふたりが語る左右両サイドから見た70年代の風景だった。むしろ、本と映画の部分はこれまで本で読んだりしているためかもしれないが、それほど新鮮さがなかった。むしろポジショントークというか、評論家としての立ち位置から来る発言みたいな感じがしてしまって(キャラクター的発言というか...)、今ひとつ乗り切れなかった。やはり面白く、リアルなのは川本が語る左翼の風景であり、鈴木が語る右翼の世界であり、政治の季節が終わった後の二人の生活だった。読み終わると、この世代の1970年代に対する思い入れの深さを改めて知ることになる。
 目次で内容を見ると…

はじめに 合わせ鏡のような二人 鈴木邦男
第1章 赤衛軍事件と全共闘へのシンパシー
 1 運動と報道の狭間で
 2 山本義隆の沈黙が支えだった
第2章 映画・文学に見る昭和史と戦争
 1 戦争映画が持つ構造
 2 虚構に仮託する
 3 人はなぜ戦争に口を閉ざしたのか
 4 自分に課した原則
第3章 右翼・言論テロ・天皇
 1 右翼の原罪を背負って
 2 “三島事件” の感じ方
 3 右翼は言論の場を活かせない
 4 テロリズムと訣別した理由
 5 もっとグレーゾーンを広げよう
あとがき 思いもかけなかった鈴木邦男さんとの対談

 というわけで、面白いのは川本の過去をテーマにした第1章と鈴木の過去を関する第3章。鈴木の「まえがき」と川本の「あとがき」では、お互いをどう思っていたか、この対談がどのようにして生れたのかがわかる。第2章は飛ばし読みしてしまった。
 で、面白かったところ、興味深かったところを抜書きすると…

川本 鈴木さんは、連合赤軍事件で終わったと言いますけど、たしかに全共闘運動はあれで終わったんです。でも、じつはその敗北の後の過程っていうのが、70年代半ばから10年くらいある。私は個人的には一番つらいときで、その頃のことを語りたいという気持ちがあるんですね。私だけでなくて、全共闘運動に関わって、その後就職もできなくなったりした人たちは、あの後どうやって体勢を立て直してまた生き始めたのか。その再生の物語ですよね。それもすごく大きなテーマになると思うんです。しかし、あまりそのことが語られていないんですよね。運よく大学に戻った人もいるけど、山本義隆みたいに在野にい続けて沈黙を守った人もいる。あるいはもっと不幸な大きな怪我をして、障害を残した人もいるでしょう。そういう人たちが、あの後、どうやって生き延びていったかという物語。それはすごく気になるんです。私の仕事として、ノンフィクションで、一人ひとりを取材して、いつかはやりたいと思っているんです。

 そのノンフィクション、読んでみたいなあ。もう、どこかに発表したりしているのだろうか。

鈴木 昔も文章は書いていたんだけど、ほとんどアジ文です。「我々は何をすべきだ!」とか「何を打倒せよ!」といった文章ばっかり。森達也さん(映画監督・作家)が、「主語が複数になると、述語は暴走する」と言っていたのですが、よくそんなことを考えたなと思いました。「私はこう思う、俺はこう思う」というのが、複数になると「我々は〜しなくちゃいけない」と暴走する。森さんが対談の中で、ぽろっとしゃべったんだけど。本当はずっと考えていんたでしょうね。そういうかっこいいフレーズを(笑)。
川本 私はものを書くようになってから、「僕」という主語を使わないと決めたんです。「私」にしたんです。20代のときは「僕」で書いていますけど、「僕」を主語にすると、文章が甘えちゃうんですね。「僕〜しちゃった」っていうふうに、饒舌な文章になる。でも「私」にすると、文章が不自由になる。あえて、不自由なほうを選んだ。私の文章に「僕」というのはほとんどない。さらに50歳を過ぎてから気が付いたのは、日本語っていうのは面白い言葉で、主語がなくても成立するんですね。だから「私」もとっちゃった。

 日本語文章の主語論。面白いなあ。確かに、主語が複数となると、述語は暴走し、私が僕になると甘えが生まれる、という感じがする。
 テレビの討論番組・トーク番組が話題になって…

鈴木 相手がいようといまいと、自分の言うことだけばーっと言っちゃうだけだったら、その人の本を読んでいれば、それで気がすむんじゃないかなという気がしますね。
川本 対話にならないんですね。
鈴木 冷静な討論というのが今はあまりないですね。見せ場を作るということばかり考えてしまう。冷静な討論じゃ、やっぱり駄目なんでしょうね。
川本 オウムの事件の頃からでしたか、「ディベート」という言葉がはやり始めましたよね。それでともかく相手を言葉でやり込めるということがものすごくはやるようになってきたために、口ごもるとか、沈黙するとか、小さな声でしゃべるとか、そういうものが大事にされなくなってきた。でも、活字の世界だけはかろうじてそれが許されているんですね。活字はせいぜい単行本1冊だって、5000部とか1万部の単位の世界ですから、天下国家を論じなくても、何となくまだ自分がぶつぶつ言っていることでも通用するんですね。ところが、テレビみたいに100万も200万もの人を相手にするメディアが幅を利かせてくると、そういう小さい声というのがなくなりますよね。
(略)
川本 すぐに白か黒かで決め付けるし、グレーゾーンというのがどんどん狭まってくる世の中って、やっぱり良くないなと思うんです。

 なるほど、そういうところはあるなあ。インターネットというメディアの特性はどうなのだろう。小さな声でしゃべることができるけど、マスでもあり、小さな声が攻撃にさらされることもある。見せ場を意識して発信している人たちもいる。一方、出版も、商業出版の場合は、経営が厳しく、収支管理が強化され、次第に、ぶつぶつ言うぐらいの単位の本を出すことが難しくなってきいる。これから、どうなっていくんだろう…とか、考えてしまう。テレビはますます見せ場志向になっているし…。
 で、70年代論から離れて、いま「どこで書くか、どこで読むか」という話題を二人が語るところがあるのだが、ここが興味深かった。書くのは、喫茶店という人もいるが、ふたりは家。面白いのは本を読む場所だった。まず、川本氏。

川本 自分の家で読む本はというのは、仕事と関係ない。古本屋で買ってきた昭和初期の小説とか、現代と関係ないものを読むことが多いですね。それこそ鈴木さんの本を読むときは、電車に乗るんです。京王線に乗って、昼間だから座れるから、高尾とか橋下まで行って戻ってくることもあるし、高尾まで行ったら、その先中央本線のローカル線に乗って、大月のほうまで行くんです。そうすると、鉄道の旅を楽しみながら、本が読めるじゃないですか。新書だったら、往復で読める。現代を語った本は、そのほうが頭に入るんですね。家の中では、永井荷風とか井伏鱒二を読んでいるほうが楽しい。たまに仕事で北海道に行くときでも、飛行機では行かないんです。つまらないから。最近は夜行の本数が少なくなったから難しいけれど、行きは夜行に乗るんです。
(略)
鈴木 山手線をぐるぐる回ったりしない?
川本 それはね、つまらない。同じところをぐるぐる回るのは(笑)。最近は田園都市線が埼玉県の栗橋まで延びた。あそこまで行くのもいいんですよ。栗橋で降りて、ぶらぶらして、利根川を眺めて。それから京成で成田まで行くとか。田んぼが色づいている季節はいいですね。

 楽しそうだなあ。一度、試してみると、面白いかも。一方、鈴木氏は…

鈴木 僕は「ロイヤルホスト」とか「ジョナサン」で読んでいますね。飯食ってコーヒー飲みながら。それなら2、3時間いてもいいやと思っちゃう。コーヒーだけだと悪いなあと思うけれど。ちょっと取っつきにくい本で、じゃあ1日50ページずつ、1週間かけて読もうかと思っても、読み始めると止まらなくなって、コーヒーをお代わりして何時間も読むこともあります。幸せを感じますね。そういう本に出会うことってあるでしょう。ただ、体力がないから。自分の家だと読めないですよ。いい椅子もないし、観たいテレビがあったり、新聞の集金が来たり…。眠くなったら、何時間でも寝ちゃいますからね。喫茶店だったら、3時間も眠ることはない。10分ぐらいで目が覚める(笑)。原稿書くのは家で、本を読むのは喫茶店にしてるんです。

 喫茶店派というか、ファミレス派。川本式移動読書術(今風に言うと「ノマド読書術」だろうか)が面白いな。まあ、遠距離電車通勤の人は毎日、川本式かもしれないけれど。
 で、最後に、70年代を闘い、その後も美しく生きたと川本氏が評価する山本義隆氏の大著はこちら...

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