グラハム・アリソン、ロバート・D・ブラックウィル、アリ・ウィン『リー・クアンユー、世界を語る』

リー・クアンユー、世界を語る 完全版

リー・クアンユー、世界を語る 完全版

 アジアを代表する賢人政治家、シンガポールリー・クアンユーのインタビュー集。「世界を語る」というタイトルだが、メインテーマは、台頭する中国をどう考え、どう付き合っていくのか。インタビュアーが米国人なので、米国に対するメッセージとなっている。そこで語られるのは、かつての世界に冠たる帝国から没落し、植民地化され、虐げられていた国が復活し、かつての帝国としてのプライドを取り戻し、再び、世界の先進大国への道を歩もうとしていること。ただ、時代は21世紀であり、知恵も蓄積されているだけに、その野心を軍事力に拠って実現しようというのではなく、まず経済的な影響力を拡大し、続いて、軍事も含めた政治的なパワーで、他国が?進貢?するような「中華」として復活しようとすること。それを中国らしいロングスパンで考えているという。うーん。説得力がある。
 かつては世界に冠たる帝国であり、文化の中心であった国が、欧米から日本に至るまで海外によって侵略、抑圧され、ようやく21世紀になって復活してきた、そのプライドと、被差別者・被抑圧者として長く生きてきた怨念の部分を捉えないといけないという指摘が随所に見える。付き合いにくいけど、そのプライドとトラウマに留意しつつ、主張すべきところは主張し、なだめたり、さとしたりしながら、関係を結んでいくべきなのだろうなあ。
 「管理国家」としても名高いシンガポールの建国者らしく、米国的な自由や民主主義には否定的。野放図な自由放任は危険で、ある程度の管理は必要という立場。自らも性悪説であることを語っている。それだけに中国の言論制限にも理解を示す。欧米型民主主義をアジアに強いる米国の姿勢を批判するが、その一方で、その自由な精神がイノベーションを生み、それが米国の絶対的な強さを生み出しているともいう。そして、この創造性の部分で、中国は米国を超えることは出来ないという。中国が米国的な自由を取り入れれば、国そのものが成り立たなくなってしまう、解体してしまうリスクを秘めているからなのだろう。
 刺激的な本だが、日本に対する言及は少ない。インタビュアーが米国人だったからかもしれないし、世界を語るうえで、日本が存在感を失ってしまっているからかもしれない。
 目次で内容を紹介すると...

リー・クアンユーを師と仰ぐ世界の指導者たち
第1章 中国の未来
第2章 アメリカの未来
第3章 米中関係の未来
第4章 インドの未来
第5章 イスラム原理主義の未来
第6章 国家の経済成長の未来
第7章 地政学グローバル化の未来
第8章 民主主義の未来
第9章 リー・クアンユーの考え方
第10章 むすび

 インドについては1章が割かれているが、リー・クアンユーはインドをあまり評価していない。カースト制をインド社会の宿痾とみているし、多民族国家で、ひとつの国家になりきっていないと考えている。シンガポールという小国を維持してきた人だけに、地政学についての造詣も深いが、さすがにウクライナなどロシア周辺国の動乱までは読み切れてはいないようだった。
 面白いところばかりで、マーカーをつけると、マーカーだらけになってしまうのだが、その中でも印象に残ったところを抜書きすると...

 中国には、世界で最強の国家になろうという意図がある。近隣諸国のみならず、世界のすべての国々との対中政策は、すでにその点を見据えている。それらの国々の政府は、中国の国益を脅かすことになった場合を想定し、自国の立場を観直している。中国は対立国に対して、収入が増えて購買力がついてきた13億の人口を抱える市場から締め出すという経済制裁を科すことができるからだ。

 なるほど。中国に依存するほど、制裁のダメージが高まる。そして...

 他の新興諸国とは違い、中国は中国として存在し、欧米の名誉会員としてではなく、中国として受け入れられることを望んでいる。

 うーん。日本は名誉会員?正会員?G7のメンバーだと、正会員?でも、国連安全保障理事会の常任理事じゃない。
 そして、中国の考え方...

 中国の考え方の核は、半植民地化やそれによる搾取と屈辱以前の世界だ。中国語で中国は「中心の王朝」を意味する。中国がこの地域で支配的な立場にあり、関連諸国を属国と見なし、北京に朝貢させていた時代を思い起こさせる名称だ。(略)アメリカが1945年以降そうであったように、強国となり工業化した中国は東南アジアの善隣友好国となりうるのだろうか?シンガポールには確信がもてない。(略)中国が自信を強め、進んで困難な立場に突き進もうとするのを、私たちは目の当たりにしている。

 確かに。属国としてしか他国を認識できないようだと、関係は成立しないなあ。
 軍事力について...

中国は、軍事力ではアメリカの水準にすぐには追いつけないが、アメリカの軍事力に歯止めをかけるために、まだ力不足の軍事力を急激に増強させつつある。中国は、自分たちの成長が、エネルギーや原料、食糧などの輸入にかかっているとわかっている。海上輸送ルートの確保も必要だ。中国政府はマラッカ海峡への依存を懸念し、依存の度合いを減らしつつある。

 この文脈でいくと、中国経済の成長が海上輸送ルートに対する不安を高め、海軍力の増強に走らせる。太平洋への出口を確保するために、周辺国との軋轢も増す。このあたり、いま読みかけの中国の海軍戦略を分析した『太平洋の赤い星』にも出て来る。一時、日本でもシーレーンの安全確保に関する議論が盛り上がり、マラッカ海峡防衛論なんていう話もあったが、中国も自分たちの経済的繁栄を守るためには、シーレーン防衛が必要という思想に取り憑かれているんだろうか。
 こんな話も...

70歳台の中国指導者の一人が私に尋ねた。「我が国の平和的台頭の方針を信じていますか?」。私は答えた。「ええ信じていますよ。但し書きが一つつきますが。あなたの世代は、抗日戦争や大躍進政策文化大革命や四人組、そして最後は門戸開放政策を体験しています。もちろん、隠れた落とし穴もありますが、中国は国内的には安定させ、対外的には平和を保ちながらエスカレーターを昇っていく必要があります。にもかかわらず、強い誇りと愛国心を、復興した中国の若者世代に植えつけようとしていますよね。それは大きな危険をはらんでいますよ」。すると、その中国指導者は、若者は理解しているから大丈夫だと応じた。ぜひとも、そうであってほしいものだ。やがていつか、その若い世代は、国家がまだ成熟してないうちに「成熟した」と思い違いをするようになるかもしれない。

 このあたりの不安は日本人だけではなかったのだな。中国系のリー・クアンユーも不安に思っている。

 東南アジアに対する中国の戦略は、きわめてシンプルだ。この地域の国々に対して「いっしょに成長しよう」というものだ。同時に、中国の指導者は、中国がナンバーワンに「到達」したときに、周辺国が、中国の友人になるか敵になるかを選ぶ必要がある、という印象を与えようとしている。さらに、中国が望むことや望まないことを理解させるために、積極的に周辺諸国に関与しようとしている。

 うーん。このあたりの懸念も共通するのだなあ。で、

 広大な市場や購買力が高まりつつある中国は、東南アジア諸国を中国の経済システムに取り込もうとしている。日本と韓国も、いやでも中国の市場に取り込まれることになる。中国は、軍事力を行使することなく、周辺諸国を吸収できるというわけだ。

 話は日本にも及んでくる。TPPは、反中国的という人がいるが、安全保障上も米国を巻き込み、環太平洋の経済圏をつくることは過剰に中国経済に依存しないようにするための戦略という側面もあるんだろうなあ。中国は、自分たちの影響力を、武力ではなく、経済を通じて広げることを重視しているという。
 一方で、中国の弱点としては、法治と言語をあげる。特に英語力。シンガポールは英語を第一言語にしたわけだが、その理由は?

 それは、世界言語という面だけではなく、英語の思考法によって、新しい発見や発明につながる効用をも考慮し、世界に向けて門戸を開放するためだ。

 英語の使用は、世界中の人材を集め、活用する点でも効果があるという。しかし、小国とはいえ、自国が生き残り、反映するために、共通言語も変えてしまうというのもすごいなあ。
 リー・クアンユーは中国の民主化には何の幻想も抱いていない。

 中国は自由民主主義にはならない。もし、そうなったら、国が崩壊する。その点については、間違いない。中国の知識人もそのことを理解している。中国に民主化を求める革命の類いが起こると考えているなら、それは間違いだ。天安門事件の学生たちは今、どこにいるのか? 彼らはもう何の影響力ももたない。中国の人々が望むのは、復興した中国なのだ。

 このあたり冷徹な現実主義政治家の顔が見える。賢人ではあっても、理想家でも思想家でも、もちろん評論家でもなく、政治家なのだなあ。
 現在の中国の指導者、習近平主席について...

 習近平は内省的だ。それは人と話したがらないという意味ではなく、自分の好き嫌いに忠実なのだ。たとえ相手から気に障ることを言われても、顔にはつねに感じのよいほほえみを浮かべている。習近平のような試練や苦難を経験することなく出世した胡錦濤以上の、鉄の意志の持ち主だ。

 リー・クアンユーは「すばらしい人物」というが、これを読むと、本心が読めない、ちょっと怖い人物という感じもする。
 日米中関係について

 中国や日本との関係も悪化させていいというなら別だが、そうでなければアメリカが日本を見捨てることはできない。日米安全保障条約を結んでいてもいなくても、勢力バランスを保つには、一方に日本とアメリカ、もう一方に中国という三角関係を保つしかない。アメリカと中国を合わせてもなお余りある中国の潜在力ゆえに、そうせざるをえないのだ。

 なるほど。そうなのだろうなあ。一方では、アメリカに対しては「最初から中国を敵国と決めつけてはならない」という。「さもないと、アジア太平洋地域でアメリカをつぶそうとする対抗戦略を助長することになる」からだ。そして「アメリカは、世界の安全と安定の問題を進んで話し合えるようになる前に、中国を崩壊させようとする意図などない、ということを中国に納得させる必要がある」と語る。そして、アメリカに、こう説く。

 アメリカが中国の面子をつぶそうとすると、少なくとも敵国扱いされることになる。むしろ、中国が大国として台頭しつつあることを認めて、会議室に席を用意すればよい。もし私がアメリカ人なら、中国のことをほめ、大国として認め、過去の栄光を取り戻してその座に戻ったことをたたえ、個別に具体策を提案して協調をめざすだろう。

 老練な政治家だなあ。この路線から言うと、安部首相は真逆なのかも。こんな話も...

 アメリカは対話と協力を通じて、これから20〜30年かけてどのように大国へと成長すればよいかという道筋を、中国に示すことができる。中国は歴史のある文明国なので、外圧や制裁では簡単に変わらない。だが、中国の指導者や思想家、知識人たちが、他国の流儀を取り入れるほうが自国のためだと確信すれば、変化は起こる。

 20〜30年かけて...。そのぐらいの視点が必要なのだな、中国とつきあいには...。そして...

 アジア太平洋の平和と安定は、中国が外国嫌いの強烈な愛国主義国家にならずにいられるかどうかにかかっている。欧米が中国の発展の邪魔や阻止をしたり、無理やり世界のルールを教え守らせ、国際的で対外的に開かれた国家にさせようとしたりすると、中国は欧米と敵対するようになるだろう。

 難儀な相手だなあ...。で、先ほどの中国の若者問題。革命第一世代から孫の第三世代に入り...

孫世代は、自国がすでにアメリカに追いついていると考えている。だから、この世代が活躍しだすと、まったく違う中国と我々は向き合うことになる。孫世代は祖父世代の言葉にまったく耳を傾けようとしない。それ以外にも、もっと重大な問題がある。自分たちは世界に冷たくされた、自分たちは世界に利用された、自分たちは資本主義者に打ちのめされ、北京を略奪された、自分たちは不本意なあらゆる仕打ちをされた、という思い込みがある。だが、これはよくない。世界で唯一の大国であった昔の中国には、もう戻れない。今の中国は、数ある大国のうちの一つなのだ。

 教育は怖いなあ。第三世代の未来がアジア太平洋、そして世界の未来を握るなあ。リー・クアンユーは言う。

 ここで不可欠なのは、成長期の平和な中国しか知らず、過去の激動期を体験していない若い世代が、かつての中国はイデオロギーの過剰信奉によって過ちを犯したと認識することだ。若者は正しい価値観や、将来必要になる謙虚さと、責任のある態度を身につける必要がある。

 そうだな。そして、この「中国」を「日本」に置き換えても、通用する気がする。双方ともに自戒が必要だなあ。
 インドについて...

 インドは実際は一つの国家ではない。実際は、イギリスの敷いた鉄道に沿ってたまたま並んでいた32の異なる民族集団だ。イギリス人がやってきて征服し、イギリス人の支配下で統合した175の君主国を支配し、1000人のイギリス人とイギリス人のように行動するよう育てられた数万人のインド人が、インドを統治したのだ。

 こういう見方もあるんだな。さらに...

 インドと中国の建設業を見ると、後者は完成させるが、前者は建設中ではあるものの、完成するあてがないという違いがある。それほどまでに、インドは多面的な国なのだともいえる。一民族ではなく、32の異なる民族が330の異なる地域言語を話す国なのだ。中国では、90パーセントが漢民族で、なまりはあってもみな同じ言語を話し、同じ文書を読める。デリーの街に行って英語を話すとしたら、通じるのは人口12億人のうち2億人くらいだろう。ヒンドゥー語が通じるのは2億5000万人、タミル語が通じるのは8000万人くらいだろう。このように、両国には大きな違いがあり、オレンジとリンゴを比べようとするようなものだ。

 中国とインドは比較できないと。そして、インドは官尊民卑であり、官僚は実業界を信用せず、公務員の仕事は取り締まりと考えられているという。「インドの民間セクターは中国よりも強力」であるにもかかわらず、政治や社会のインフラが整っていないというのがリー・クアンユーの認識。で、こんな指摘もある。

インドは、中国と違い、国際秩序を壊そうなどという意図を見せていない。先進国の水準にまで社会インフラを整え、今よりも経済を自由化しない限り、そんなことはできないことも理解している。むしろ、アメリカやEU、日本が、世界の勢力バランスのためにインドを中国の対抗勢力にしようと、インドを支援している。

 それはあるかもなあ。しかし、その一方で、アジアにおける中国の拮抗性力として、リー・クアンユーもインドに期待している。

 インドには国際政治の中で、できるだけ早く経済大国として台頭してほしい。インドが台頭しないと、アジアは没落してしまう。それを阻止するためには、アジアでのインドのプレゼンスが必要だ。インドは番人として、東南アジアの小国の安全保障、政治的安定、経済発展に積極的に関与する存在になってほしい。韓国は小さすぎる。ベトナムも小さすぎる。東南アジアは、あまりにも異質な国々で構成されている。バランスを保つためには、もう一つの大国が必要なのだ。どこが拮抗勢力になるか? 日本は拮抗勢力にはなれない。日本とアメリカの2か国で、経済的、物理的、軍事的に拮抗勢力になることはできる。だが、アメリカが100〜200年後にアジアでの優位を保てないのだとしたら、アジアで拮抗勢力になるのはどこか? 頼れるのはやはりインドだ。

 そうなんだ。
 グローバル化、テクノロジー革新時代の競争力について...

 急速にテクノロジーが変化している時代には、アメリカがかつてそうだったように、多数の企業、とくに投資家が資金を提供するIT産業のある国が、次の段階の勝者になる。日本、韓国など東アジアの国々は、グローバル化した市場で競争するために根本的な文化の変化を受け入れる必要がある。違う文化をもつ人材を受け入れ取り込み、協力的な新しい文化をつくろうとする国は、優位に立つだろう。
 日本をはじめとした東アジア諸国は基本的に自民族中心で、社会の結びつきが強い。自分たちの社会に、簡単に外国人を受け入れようとはしない。だから、アメリカと競争する前に、まず社会の考え方を根本的に変える必要がある。アメリカ社会は、歴史も文化も宗教も異なる相手を、簡単に仲間として受け入れるからだ。

 これは日本にとっては難しいことだなあ。次第に変わってきてはいるけど。
 グローバル化の負の側面も認識している。

 グローバル化のもたらした負の側面は、高い教育を受けた者と受けていない者との格差、都市部と農村部の収入格差、沿岸部と内陸部の地域格差を広げたことだ。きわめて教育レベルの高い者は、高い報酬を求めて先進諸国、とくにITやインターネット部門を渡り歩ける。教育レベルの低い者は身動きがとれず、賃金の高い先進諸国に移住することもできない。それは、市場の力に動かされている世界が避けられない負の側面だ。

 格差問題...。でも、だからといって、グローバル化が逆戻りというと...

 それはない。グローバル化を不可避にしたテクノロジーには、創造力があるからだ。よりよくて安い輸送や通信が、グローバル化をさらに推し進めるだろう。

 そうだなあ。こうもいう。

 世界規模の統合に代わる、実行可能な対策はない。地域主義の衣をまとった保護主義は、地域ブロック外での優位性を競ううちに、遅かれ早かれ湾岸の産油国と同じように、地域ブロック間の紛争や戦争に発展する。グローバル化は、公正かつ受け入れ可能で、世界の平和を守る、唯一の答えなのだ。

 リアリストらしいなあ。
 そのリアリストの根底にあるものは?

 人間は残念ながら、本質的に悪である。だから、悪を抑える必要がある。我々は、宇宙は征服できるかもしれないが、宇宙時代どころか、石器時代を生き延びるのに必要だった自分の原始的な本能や感情の克服法すら身につけていない。

 性悪説なのだなあ。それは、どこから生まれたのか。

 私の考え方は、私の性格に起因する−−私の人生体験にも。世界全体が崩壊していた時代に、不透明で不確実な状況を体験したのだ−−とにかく、私の場合は。大英帝国の支配は東南アジアではまだ1000年は続くと思われていたが、日本軍が1942年に侵攻してきて崩壊した。日本軍がシンガポールを占領し、イギリス人を追い出すことなど、私は考えたこともなかった。だが日本軍はやってきて、私のみならず、我々を虐げた。毛沢東が「権力は銃身から生まれる」と言ったはるか以前に、私は身をもってそれを学んでいた。日本人が身をもってそれを示したのだ。イギリス人ではない。大英帝国の最果てにいるイギリス人たちは、暴力をふるう必要がなかった。テクノロジーや商取引の知識の点で、イギリス人は優れていた。イギリス人は1868年にインド人服役囚によって丘の上に立派な総督府を建て、シンガポールの人々を統治した。私は国を支配する方法や国民の収め方をイギリス人に学び、権力の使い方は日本人に学んだ。

 日本は占領したシンガポールで華僑の虐殺事件を起こしているが、リー・クアンユーも中国系だから、その記憶は癒えないのだろうなあ。日本の占領については、こんな話が続く。

 シンガポールに侵攻した日本人から、私は人生で唯一最大の政治教育を受けた。3年半で、権力の意味、権力や政治や統治の関係を知り、生活のために、人々が権力機関にからめとられることも学んだ。ある日、目の前には、申し分のない不動の主人としてイギリス人がいた。それが翌日には、日本人にとって代わられていたのだ。我々は日本人を、近眼で目つきの悪いチビで発育不全だとバカにし、嘲笑った。
 シンガポール建国初期のめまぐるしかった時期をベテラン議員たちと振り返ると、過酷な人生勉強をして得たものが大きいことに気づく。街のチンピラに立ち向かったこともある。そうやって生きていく知恵を身につけていなかった、我々はこてんぱんにされていただろう。柵の向こうの小屋に閉じ込められた犬のように、我々は危険だらけの世の中で生き延びてきたのだ。

 この賢人政治家、書斎で学んだ人じゃない。街場で鍛えあげられた人でもあったのだな。加えて、日本に対する感情も複雑なものがある。しかし、これほど日本に対する苦い思いがあっても、戦後の復興期の日本モデルは学んで、取り入れていたから、私情としてはどのようなものがあっても、知的には柔軟だったのだな。それだけ徹底したリアリストだったのかもしれない。しかし、アジア切っての世界有数の賢人政治家が、戦争体験によって、こうした複雑な思いを抱えるに至ったことを認識していなければ、そうした歴史を認識していなければ、アジアと付き合っていくことは難しいだろうなあ。
 ここまで長々と引用してきたが、このほかにも印象に残るところが山ほどあり、まだまだ書ききれない。それだけ刺激的で、示唆に富んだ本といえる。