井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』

生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫 1866)

生き残った帝国ビザンティン (講談社学術文庫 1866)

 クリミア問題からロシアに対する興味が再燃し、ウクライナとロシアのことを勉強しているうちに、ロシア正教の源流としてのビザンティンに行き着いてしまった。そして、ビザンティンとなると、名前は教科書で知っているものの、ほとんど白紙状態。コンスタンティノープルって今のイスタンブールね、っていうぐらいの初歩的知識しかない。そんなこんなで、オスマン・トルコに滅ばされるまで、1000年以上の歴史を持つ帝国の歴史を読んでみた。なるほど、こんな成り立ちの国だったのか。そして、国というのは表面的には外敵によって滅ぼされたようでも、本質的には内部から腐り、崩壊していくものなのだなあ、と、改めて思う。盛者必衰、諸行無常です。
 目次で内容を見ると...

プロローグ−−奇跡の一千年
第1章 ローマ皇帝の改宗
第2章 「新しいローマ」の登場
第3章 「パンとサーカス」の終焉
第4章 栄光のコンスタンティノープル
第5章 苦悩する帝国
第6章 ビザンティン帝国の落日
エピローグ−−一千年を支えた理念

 ローマ帝国の「パンとサーカス」の原理は、東ローマ帝国といわれたビザンティンでも受け継がれたが、それは豊潤の地、エジプトを支配し、収奪していたから可能だった話で、帝国が維持できなくなれば、パンの配給もできなくなってしまったのだな。サーカスもいつまでも続けられない。やはり経済が、その裏にあるのだな。
 印象に残ったところを抜書きすると...
 ビザンティンでは小作農制度があったが、これが少し変わっていた。

 村人同士のあいだで小作契約が結ばれるのであるが、普通の小作とは反対に、ここでは地主が貧しく、小作人が豊かなのである。すなわち、働き手が死んだり病気になって、自分の土地を耕せなくなった一家に代わって、同じ村の豊かな農民がその土地を耕してやるのである。耕作を請け負うときに両者の間で契約が結ばれ、収穫物は地主と小作人のあいだで分けられた。地主一束、小作人九束という分け方もあった。
 このような制度が村で生まれた理由は国家の財政政策にあった。ビザンティン帝国は農民たちから確実に税金を取るために、村を徴税の単位とし、村ごとに連帯責任をもたせていた。もしもある農民が税を払えない場合、同じ村の者たちがその分を負担しなければならなかった。それゆえに村では、貧しくて税金が払えない農民がでないように、お互いに助け合ったのである。

 なるほどねえ。連帯責任によって協同して働く仕組みをつくったわけか。8世紀から10世紀にかけて発展期のビザンティン帝国の軍隊は、主に農民から集めていた。税を納める代わりに兵役につく、いわば血税で代替する仕組みがあったのだな。しかし...

 ところが帝国の発展を支えてきたこの農民たちのあいだに、10世紀ごろから変化が起こっていた。軍役を果たせない農民がふえてきたのである。帝国の対外発展とともに、彼らは遠い地方へ遠征に出かけることが多くなった。その結果、長期間家を留守にするため、農作物が十分行えなくなった。国家からもらう給料は少なく、かつ馬や武具は自分もちとされていた彼ら農民兵士たちは、農業経営がふるわなければ、召集がかかっても、それに応じることができなかったのである。
 以前にはこのような貧しい農民を、村全体で援助するというしくみがあったが、それもうまく機能しなくなっていた。貧しい農民の数があまりにも増えたため、一部の豊かな農民は、村の仲間とは一線を画すようになった。

 帝国が成長、拡大しすぎた結果、それまでの成功を生むシステムがもたなくなった。会社でもありそうな...。

 農業経営に行き詰まり、軍役を果たせなくなった農民たちは、土地を捨て、村を出て流浪せざるをえなくなった。もともと土地は彼らの生活の基盤であり、村はお互いが助けあって生きてゆく集団であった。にもかかわらず、彼らはそれを捨てたのである。土地を所有しているかぎり、国家の税や軍役を逃れられないからであり、村人たちの利害が一致しなくなった村は、もはや助け合いの期間ではなくなっていたからである。
 村を捨てた農民はどこへ行ったのか、捨てられた土地はだれのものになったのか。一概にいうことはできないが、あえて単純化すれば、「貴族のもとへ、貴族の手に」といえる。

 ビザンティン版・大格差時代の到来だったのだな。で、勢力を拡大した貴族は、それまでは専制君主として絶対的な権力をもっていた皇帝を軽んじるようになる。ビザンティン領に侵入しようとするトルコとの決戦の際に、貴族が裏切って独断で退却したのをきっかけに全軍総崩れとなり、皇帝はスルタンの捕虜になってしまうなどという事態まで起こる。
 通貨の話も興味深い。

 コンスタンティノープルの繁栄は、なによりも国際商業によって支えられていた。ヨーロッパとアジア、地中海と黒海を結ぶ十字路に位置するこの町は、世界の商品の集散地であった。帝国が強大となり、国の内外が安定するとともに、イタリアの商人、アラブの商人、ロシアの商人、さらにもっと遠方からも商人たちがやってきた。ビザンティン帝国が発行する金貨、ノミスマ金貨は、国際通貨として各国の商人によって使われた。ある学者はノミスマ金貨のことを「中世のドル」と呼んでいる。

 帝国は基軸通貨国家でもあったのだ。しかし、国力、経済力が落ちると、どこの国でもまず手を付けがちなのは悪貨の発行、貨幣の劣化。ビザンティンでいえば、ノミスマの金含有率を落とすこと。で、こんなことになる。

 悪い金貨を発行した理由は、いうまでもなく帝国の財政難にあった。安上がりの農民兵をもはや使えななかった帝国は、外敵の侵入を前に傭兵を雇わねばならず、その費用がとてつもなく高くついたのである。赤字を補うための増税も容易には行なえない。納税者である農民たちが、逃亡というかたちで抵抗するからである。増税も経費節減もできない政府に残された借入れであった。
 近代国家において政府の借入れは国債の発行という形で行なわれる。ビザンティン帝国にもそれに近い制度があった。官位販売である。定められた金額を国家に払い込むと、爵位や名誉官職が与えられ、それに応じた年金を受け取ることができるというこの制度は、国債制度に等しい役割をはたした。官位販売は国債発行であり、年金は利息である。官位を手に入れるためには、その官位の年金の20倍ほどの金額を国に払い込むことになっていたから、利率はだいたい年5パーセントということになる。

 うーん。皇帝を頂点とした身分制度における階級を販売する。アイデアだなあ。で、国債ならぬ官位を乱発して、国費を賄ったらしい。官位を買う人々も最初は名誉を買おうとしたわけだが、次第に「有利な投資先として」官位が買われるようになったという。当時は、高利回り商品として認識されたわけか。人間の欲とは因果なものだなあ。昔の人も、今の人も同じといえば同じ。ビザンティンの人々も「目指せ、金利生活」だったんだなあ。昔話と笑えない。帝国が反映し、成熟すると、こうなっていくのか...。で、ビザンティン帝国

 まもなく年金を支払うために、官位を売りに出すというありさまとなった。末期的な赤字国債発行である。その結果、ついにニケフォロス三世時代(在位1078−81年)には、官位保有者に支払う年金が国家の収入の何倍かになった。皇帝は支払いを中止せざるを得なくなった。ビザンティン帝国は国家破産を宣言したのである。

 笑えないなあ。で、この難題を解いたのは、アレクシオス一世。

 アレクシオス一世は官位制度そのものを全面的に改革して、古い官位(すなわち国債)を事実上無価値にするという方法をとった。(略)アレクシオスの強権発動の背後には有力貴族の支持があった。旧官位保有者の抵抗を抑えて、赤字国債を強引に解消できたのは、その一方で、新しい官位をつくって、高い位を有力な貴族たちに分け与えたからである。彼が行なった官位制度の大改革は、赤字国債の解消と、新興の有力貴族の支持確保の一石二鳥の政策であった。同時にそれは、帝国の支配層の大幅な入れ替えも意味していた。

 構造改革だったのだなあ。それまでのビザンティンの仕組みをぶっ壊して、新興勢力を取り込む。政治家だなあ。経済構造を眺めていくだけでも面白い。しかし、英明な皇帝が何代も続くわけもなく、むしろ、宮廷内では嫉妬や陰謀やらによる足の引っ張り合いのほうが激しく、ビザンティン帝国は内部から崩壊していく。ともあれ、読んでいるうちに、今を考えてしまう本。ロシア人は、ビザンティンに対して、どんな思いを持っているのだろう。ロシアがキリスト教を選ぶときに、ローマのカソリックではなく、コンスタンティノープルの華麗で荘厳な正教に心を奪われたことは確かなようだが...。
 ともあれ、読みやすいし、面白い本。そして、ベネツィア、十字軍、オスマン・トルコと、さらに、いろいろな本を読んでみたくなる。