エマニュエル・トッド、ユセフ・クルバージュ「文明の接近」
- 作者: エマニュエル・トッド,ユセフ・クルバージュ,石崎晴巳
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2008/02/25
- メディア: 単行本
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刺激的だったのは、以下のようなところ。
(略)われわれは、すべての大陸が、そして間もなく、ほとんどすべての国が、出生率の制御の過程に踏み込んで行くのを目にすることになる。それは心性の革命が起こったという仮説なしには説明がつかない。経済的変遷だけでは、この大転換の原因を解明することはできないからである。人口学者が最も妥当とする説明変数は、一人当たり国内総生産ではない。女性の識字率である。出生率の指標と女性識字率を結ぶ相関関係は、常に極めて高い。読み書きの習得は、経済的発展水準によって決定されるようには見えないのであり、それゆえわれわれとしては、識字化から発して出生率の低下にまで至る歴史の動きの下に隠れているのは、諸民族の心性の自律的な変遷であることを、認めなければならない。
なるほど。で。
われわれはまた、これらの変動の中で宗教の果たす役割にも目を向けることになろう。と言うのも宗教は、人口学においては枢要な変数なのである。いかなる宗教も、人口革命を妨害する力を持つとは思われない。その点ではイスラームも、キリスト教や仏教と同様である。しかし人口学的移行期の歴史を見てみるなら、大抵の場合(おそらくはすべての場合に)出生率の低下に先立って宗教的危機が起こっているのであり、宗教的危機の重要性が分かるのである。
では、出生率と宗教は関係するのか。
スンニ派アラブ圏には、国によっては、強大な固定性が存続しているように見えるところもあるが、そうした国々において最終的な説明変数は、宗教ではなく、特に強力な父系の伝統的家族制度なのである。(中略)家族制度の分析は、イスラーム教と文化的多様性の関係についての、不安におびえているかのような、ある種の硬直した解釈を厄介払いするのにも、役立つのである。
宗教的対立をもとにした新聞・テレビ的な解釈だけで、イスラム世界を見てはいけないというわけね。特に米国メディア的な視点と対立する。
人口学的手法を中東全体に適用して見るなら、西洋の、それも特にアメリカ合衆国の地政学的選択の馬鹿さ加減、あるいは自己欺瞞性が直ちに浮き彫りになる。西洋民主主義諸国は、民主的な近代性を支持するものと考えられているのに、中東における発展の主要な極は今後はイランになる、ということを見ようとはしないのだ。イラン・イスラーム共和国の出生率は、女性一人当たり子供は二に近い。これはアフガニスタン、パキスタン、イラクの出生率に対して対照的であるが、それだけでなく、はるかに意外なことではあるが、トルコの出生率に対しても対照的である。
2005年の出生率は、トルコが2.35に対して、イランは2.00。EUへの加盟が議論されているトルコ以上に、イランは近代化が進んでいる国ということになる。出生率というデータから見たイランにおける宗教性は、イメージよりも微妙なものがある。
実はわれわれがこれまで見ようとしなかった政治的な指標も、同じことを訴えていたのである。イランはより自発的かつ自然に民主主義を実現したのだ。トルコの政体は、民主主義的傾向の軍事クーデタから生まれたものであり、いささかでも逸脱の兆しがあれば厳重に対処する用意のある軍の監視下に、いまでも生き続けている。トルコの非宗教性は、個々人の自由な選択という観念と同一視することはできない。イランでは政体は、フランス、イングランド、アメリカ合衆国と同様に、本物の革命から生まれたのであり、ここでは自律的な要因としての軍は存在しない。もっともこの国には軍が二つある。一つは正規軍、もうひとつは革命から生まれた革命防衛隊(パスダラン)である。この二重化が実際上は政治の自律性を保障している。
こうした視点で考えたことはなかったけど、言われてみれば、一理ある。で、この本を読んでいると、怖いのは、むしろパキスタンに思えてくる。トッドは、パキスタンの構造は、レバノンに似ているというだ。
パキスタンは、イスラーム教徒が九七%であるから、同質的な国と考えられている。しかし現実にはこの国には、いくつもの断層が走っており、それによって人口増加の不安定化効果がさらに悪化するのである。イスラーム教そのものは、二度にわたる分離(一度目はインドからの分離、二度目はバングラデシュの分離独立)から生まれた国でのアイデンティティに関わる要求を沈黙させるほどの統合機能は持たない。
周縁部の諸州と民族集団の出生率は、中央部の諸民族よりも高いという。地域の人口問題は、議会での民族ごとの代表性の問題、それに応じた予算配分の問題につながる。
これらの問題は、伝統的に中央諸州にとって有利に解決されていたのである。こうしたことは一切、奇妙にもレバノンを連想させる。もうひとつのレバノンとの類似点は、人口の二〇%から二五%を占めるシーア派の存在である。およそ四〇〇〇万人のシーア派信徒を抱えるパキスタンは、イランに次いで、世界第二のシーア派国ということになる。彼らシーア派信徒は、しばしばスンニ派原理主義者たちの収奪の的にされている。
う〜む。パキスタンのレバノン化は、まさに悪夢だ。中央政府の混迷ぶりなど、危険な要素はある。しかも、核保有国である。米国メディアは、パキスタンの基盤は、見た目以上に強いと報道しているが、イランのパーレビ政権が崩壊したときも、パーレビは盤石と分析していた国だからなあ。情報分析能力としては、欧州勢のほうが信頼できそうだが・・・。
ともあれ、ひとつの国や民族を、異質なものとして排除する考え方は「偏見」というのが、この本の主張でもある。「結論」部分で、こんな話が出てくる。
われわれは、この地球が、宗教によって異質なものとされた人間たちからなる、互いに相手に対して閉ざされたいくつもの文明に分裂している惑星であるという不吉な表象を免れることができる。昔々ロシアにおいて、西洋的人間、つまり西ヨーロッパかアメリカの人間とは本質を異にするホモ・ソヴィエティクス(ソヴィエト的人間)が出現したとの理論が横行したことがあった。しかしそれと同じ時期に、ロシアの出生率の崩壊が起こっていたのであり、そのことはロシア人も他の人間と同じ人間であることを意味していたのである。性生活・家族生活の中に選択の自由が出現するや、それに続いて必然的に、この同じ自由の観念がイデオロギー的・政治的生活へと拡大されるということが起こらずにはいなかったわけである。
イラン、アフガニスタン、パキスタン、ロシア、中国などなどーーこれからの世界を考えていく上で、含蓄に富んでいるなあ。最後にイランについて、トッドは巻末に収録されたインタビューで、こんなことを語っている。
イランは近代化の軌道の上にあり、そのため「イスラーム主義的退行」の中に打ち沈むことは不可能なのです。イランと比較するのに格好の相手は、フランス革命とロシア革命です。この二つのケースでは、識字率の上昇がイデオロギー的・政治的危機を生み出し、それが君主制の打倒を招来し、それに続いて極めて暴力的な時期が到来しましたが、その後、緊張が緩み、厳しいイデオロギー局面の終焉が訪れるわけなのですが、それはイランも同じなのです。
悠久の歴史の中で考えた方がいいのだなあ。そして、今のイランを見ていると、混乱の中から、さらに歴史は進化していく、その過程にあるのだろうか。