- 作者: ヴァンサン・デュリュック,結城麻里
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/06/05
- メディア: 単行本
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この本を読んでいると、巨大ビジネス化し、コレクティブなチームプレイよりも自分の商品価値を高めるための個人競技へと走ってしまいがちな最近のサッカーの闇が見える。なぜ、フランス代表では団結してストライキを打つ選手たちが自らのクラブの理不尽には沈黙するのか、と筆者の舌鋒も鋭い。クラブではキャリアを考えて、おとなしくしているのに、特に失うものがない代表では気軽に騒げるのか、と批判する。それもそうだなあ。日本はまだ、代表のプレステージが高いが、一歩、誤ると、こういうことになりかねないのだなあ。代表での戦いを、自分の市場価値を高める場所とだけしか考えない選手たちが出てくると、こういう問題が起きるのだろうなあ。ドメネクも相当ひどい監督だったが、選手も選手だったことが分かる本。
最後は再生への希望を残しているけど、期待をかけているのはベンゼマとか、南ア大会の代表メンバーから外されていた選手たちの様子。しかし、どこの国のサッカーでもそうなのかもしれないが、栄光を背負ったOBの暗躍やら、選手同士の好き嫌いやら人脈やら、監督と有力選手との駆け引きやら、代表監督は大変な仕事だなあ。それに白人、黒人、ムスリムという人種・宗教問題が絡むから、さらにややこしい。フランスにしてもチームで仲間外れにされるのは怖いらしく、練習のボイコットにしても選手の総意だったのかどうかはかなり疑問らしい。
で、目次で内容を見ると…
第1章 「日曜日のスト」に参加した男たち
第2章 「ドメネク主犯説」の真偽
第3章 アネルカという「鬼門」
第4章 責任逃れした権力者たち
第5章 選手共和国
第6章 「脅し」と「告白」
第7章 遠い船出
読んでいて、印象に残ったところを抜書きすると…
現代では〝携帯メールの王様〟でなければ、代表監督は務まらない。
代表選手の選考、特に落とすときは事前に連絡しておかないと、へそを曲げて「代表を引退する」とか騒ぎ出すスター選手がいるのだという。タカピーな人が「挨拶がない」というのは万国共通なのだなあ。
フランス代表監督でもあったアルベール・バトゥーがフランス・フットボール界の幹部たちについて語った言葉...
「彼らを批判すると、彼らはすぐにボランティアだからと答える。だが、ボランティアだからといって、無能でいいということにはならないのだ」
これと全く同じ話を日本のアマチュア・スポーツ界の人から聴いたことがある。「ボランティアが一番、たちが悪いんですよ」と言っていたなあ。マネジメントに当たる人が「ボランティアだから」というのは禁句なんだけど。
最近のサッカー選手について…
選手たちのうち最も発展を遂げている者ーーあくまでビジネス的にという意味であって、知性が発展しているわけではないがーーなど、契約問題担当の代理人にはじまって、報道陣対策専門の代理人、電話でしきりにコンタクトをとるメンタルコーチ、敵に飛びかかろうと身構えている弁護士、心の内を打ち明ける対象ではあるものの信用しきれない妻ーー信用できるなら財産共有方式で結婚しているはずだーーに至るまで、わんさとアドバイザーを抱えている。
皮肉たっぷりだなあ。でも、こう読むと、スター選手でも寂しい姿だなあ。
4−3−3とか、4−4−2とか、4−2−3−1とか、システムの話があるが...
本当の意味で戦術に興味を持つ選手など、ほとんどいないのが実情だ。彼らが戦術に興味を持つのは、それが自分の好きなポジションや自分の利益に関わってくるときだけなのだ。
うーん。選手に対して不信感を持っているなあ。でも、実際、ドメネク監督の言うシステムに従わなかったことがアネルカ問題の導火線になっている。
一方、フランス代表のスキャンダルといえば、2006年のワールドカップ・ドイツ大会(ベルリン会場の対イタリア戦)の頭突き事件があったのだが、そのときの対応について…
〝ベルリン後〟の対応は模範的だった。すでに月曜日から、つまり自身のファウルのせいで敗れたかもしれないファイナルの翌日から(とはいえもちろん、彼なしではファイナル進出もなかったかもしれないわけだが)、友人やスポンサーが乗り出して、ジダンを引き受けたのだ。それはしばしば同じ面々で、特にダノングループ会長のフランク・リブー、ヤング・アンド・ルビカム(アメリカの大手広告代理店)共同社主のジャック・ブンケールだ。
ジダン救出作戦は、このジャンルにおける模範的な一大キャンペーンだった。ほとんど勝利していながら敗れてしまったワールドカップファイナルの翌日、巨大なキャリアがたった一つの愚かな行為で終焉を迎えた翌日、世界中の人々に目撃され、スポーツ的精神にもチームの利益にも反するその行為の翌日に、なんと議論の90%がマテラッツィの言葉が何だったのかに集中していたのである(ジダンの母や姉を侮辱して挑発したと言われている)。
その事実自体が、すでにアドバイサーたちの勝利を意味していた。残り10%のジズー批判など、すっかり呑み込まれてしまったのである。
このあとに具体的な例も出てくるのだが、完全なダメージ・コントロールでキャリアの危機を乗り切ってしまったのだそうだ。広告、恐るべしだなあ。で、南ア大会の崩壊の時は、こうしたスポンサーや広告業界の大物が不在だったのだという。それも、フランス代表が崩壊し、泥沼化した一因だという。なるほどなあ。
で、こんな話…
あれほどコレクティブなストからみれば、何とも逆説的な話ではあるが、この危機管理者の欠落には、現代的で底深い、ある傾向も接ぎ木されていた。ナイズナのレ・ブルーは、21世紀のフットボールが正真正銘の個人スポーツになり下がってしまった明白な証拠をもたらしてくれたということだ。同じ下り坂にいたのは彼らだけではなかったが(程度の差こそあれ、各国フットボール界が同様の傾向に脅かされている)、テレビの生中継中に世界中の人々の眼前で谷底まで転げ落ちてみせたのは唯一、彼らだけだった。
「グループの80%は空中分解寸前だ」と、アーセナルのフランス人監督アルセーヌ・ヴェンゲルは、ワールドカップ中に宣言したものだった。ワインやシャンペンの銘柄になぞらえて言えば2010年銘柄ーーまは非銘柄ーーのパラドックスは、伝統的にライバル争いや嫉妬心、ときにはコミュノタリズムなどを理由に空中分解してしまうチームであり続けたオランダが、どういうわけか最後まで勝ち残ったことである。個人主義と紛争のビッグゲームに最も慣れていて、準備万端だったからだろうか……?
そのオランダ・チームは2012年のユーロではグループステージで空中分解してしまった。
最後にフランスの選手育成の難しさについて…
ユース世代の各フランス代表も、二重の意味で希望の希望の不確実さを体現している。フランスの育成政策はいまもすばらしいし、それはこの忌まわしき2010年夏にU−19代表がスペインを撃破して(2−1)、ヨーロッパチャンピオンの座に輝いた事実を見ても間違いない。
だが、ユースのフランス代表に招集された多くの若者たちは、フランスA代表入りが難しいと確認すると、最後は両親の出身国のA代表を選んでしまう。フランス代表にはまだアクセスができそうにないと感じた21歳や22歳の選手たちにしてみれば、カメルーン代表としてワールドカップを戦ったり、アルジェリア代表としてアフリカネーションズカップを戦ったりすることは、すさまじく魅力的なのである。
こうしてフランス代表は、自らが育成したタレントを失っていき、いくつかのポジションの穴を掘り下げることになる。その年代きっての逸材たちが外国代表に旅立ってしまうか、あるいは少なくとも、その世代の競争を削いでしまうからだ。
うーん。そういう事情があるのか。コートジボワール代表のドログバもそんな一人で、ユースのフランス代表にも呼ばれなかったらしいのだが、もしユースで呼ばれいたら、A代表もフランスを選んだと話していたという。このあたりは移民国家らしい難しさだなあ。
ともあれ、あの南ア大会のフランス代表の醜態から、現代サッカー事情を覗き見ることができる本でした。