ソルジェニーツィン『甦れ、わがロシアよ』

 ソ連の崩壊過程、ロシアが混迷していた1990年にソルジェニーツィンが発表したロシア再生への提言。副題に「私なりの改革への提言」とあるように、ソ連によって荒廃し、行き詰まったロシアをいかに再建していくかを考える。いまのロシアとウクライナの関係を考える上でも参考になる。これを読むと、ソルジェニーツィンにとって、ロシアとは現在のロシア連邦に加え、ウクライナベラルーシを加えた地域だったことがわかる。モスクワ公国の源流を辿れば、いまはウクライナの首都のキエフであり、この3国こそが同じ民族としての源流を持つロシアという認識がある。だから、こんなことも言っている。

 私の見解では、今ただちに大声で、しかも明確なかたちで、次のごとく宣言すべきである。すなわち、バルト三国ラトビアリトアニアエストニア)、外コーカサスの三共和国(グルジアアルメニアアゼルバイジャン)、中央アジアの四共和国(タジク、キルギスカザフスタン、カザフ)、さらに、ルーマニアとの統一を求めているならばモルダビアを含む十一共和国を、間違いなく、しかもあと戻りしないように分離すると宣言することである。
※カッコ内の国名は私の補足

 ソルジェニーツィンは、このあたりの国々はロシアではなく、むしろソ連共産党が帝国化を目指し、多くの民族を抱え込んだことが統治問題を複雑化させ、ロシアの負担になっていると考えていた。こうした周縁部の民族を分離したほうがルーシとしてのロシアの性格が明確になるというのがソルジェニーツィンの主張。そして、これらの国々を分離して、ロシア・ウクライナベラルーシとなっても「それでもなお、この土地には大小あわせて百以上の民族と種族が残る」とも言っている。多民族国家なのだなあ、ロシアは。
 ともあれ、ソルジェニーツィンは、ソ連共産党がつくった帝国はもはや維持できないと説く。そして、こうも主張する。

この大帝国を維持することは、わが民族そのものを死滅させることなのである。いったい何のために、このような雑多な民族を混合させる必要があるのか。ロシア人が自分の本来の顔を失うためなのか。われわれが努力しなければならないことは、この大国を広くすることではなく、その残った部分の民族精神の純度を高めることなのである。一見、犠牲にみえる十二の共和国を切り離すことによって、ロシアはかえってその貴重な内部発展のためにみずからを解放し、自分自身に注意を払い、自分自身に専念できるのである。

 なるほど。しかし、プーチンのロシアは帝国を復活させたがっているようにも見えるが...。
 さて、いま注目のウクライナについてだが、ソルジェニーツィン自身、ウクライナとの縁は浅からぬものがある。

 私自身、半分近くはウクライナ人であり、子どもの頃はウクライナ語の響きのなかで育った。一方、悲壮さに満ちた白ロシアで、私は戦争体験の大半を過ごし、その悲しい貧しさと柔和な民族性を心から愛したものだ。

 ウクライナとロシアの血がソルジェニーツィンには流れているのだ。そしてベラルーシで青春時代を過ごした。だから、ロシアの立場ではなく、同胞として、ロシアとウクライナベラルーシ白ロシア)は、キエフ・ロシアから生まれた一つの民族であり、ロシアとの統一を訴えている。特にロシア語を排し、ウクライナ語を強制するような、歴史や実情を無視したウクライナの分離独立要求には批判的だ。

 われわれは、ウクライナソビエト時代に体験した死の苦しみに対しては、心底から同情しないではいられない。しかし、なぜこんな不当な要求が出るのか、なぜ血のつながっているウクライナを切り離さなければいけないのか。(略)もし、「民族自決権」を認めるならば、当の民族がみずから自分の運命を決定すべきである。全民族による投票なしでは、この問題は決められないのである。
 今は、ウクライナを切り離すことは、何百万人の家族や人びとを切り離さなければならないことになる。あまりにも住民が混ざりあっているからである。ロシア人が大部分を占める州がいくつもある。自分がロシア人なのか、それともウクライナ人なのかを決めかねている人びとが大勢いる。混血があまりにも多い。ウクライナ人とロシア人の結婚も多い。しかも、今まで誰もそれを特別なこととは考えてこなかった。ウクライナの住民のあいだには、ロシア人とウクライナ人の不和の影さえ見えないのだ。

 うーん。ソルジェニーツィンが生きていたら、いまの状況をどう見るのだろう。当然のロシア回帰との再統一と見るのか、それとも帝国の復活を目指すロシアの強権的な手法を批判するのか。ロシアへの純化も、半分のウクライナ人の血は反発するのか。こんな一節もある。

 この二世紀のあいだ、われわれの二つの文化が交わってたくさんの優れた人材を世に送った。M・P・ドラゴマーノフが指摘しているように、「切り離すこともできないが、混ぜ合わせることもできない」のである。ウクライナ文化と白ロシア文化に対しては、ウクライナ白ロシアだけでなく、大ロシアにおいても、友情と喜びをもって広く門戸を解放しなければならないのだ。いかなる強制的なロシア化もあってはならない。(1920年代の末からみられた強制的なウクライナ化もしてはならない)。互いの文化の発展を制限してはならない。学校の授業は、両親の選択によって、両方の言語で行われなくてはならない。
 もちろん、もしウクライナ民族が実際に分離を望むなら、それを無理に抑えることは誰にもできない。しかしながら、国土の広い国は多様である。地元の住民は自分たちの地方、自分たちの州の運命を決めることができる。そして、その地方で新しくできた少数民族は、同じように暴力にあってはならないのである。

 急進的なウクライナ右派に批判的だろう。といって、軍事力を使って、騒乱を煽るようなロシアのやり方をどう思うのか。いま生きていたら、プーチンをどう語っていたのだろう。気になるところだなあ。
 以上は、ロシアの自己規定だが、ソルジェニーツィンが、この提言で語りたかったのはむしろ、共産党による独裁が終わった後、どのようなロシアを作るのかということ。民主主義の伝統がないロシアに、どのような形で民主主義を定着させていけばいいのか。そうした中で、いくつか、印象に残ったところを抜書きすると...

 「人権」は本来良いことであるが、われわれは他人の権利を犠牲にして、自分の権利を拡大してはならない。権利を無制限に拡大している社会は、試練にあった時、その試練に耐えられない。もしわれわれが暴力的な権力の支配を受け入れたくないならば、各自が自分自身を抑制しなければならない。どんな憲法も法律を制定しても、またいかなる選挙を行なっても、人間は執拗に自分の利害を追求する性質があるから、それ自体で社会のバランスを保つことはできない。大部分の人びとは、もし自分の権利を拡大して他人のものを手に入れる力をもっていれば、その力を間違いなく行使するものである(まさにこうしたことが、歴史上の国家の支配階級や支配グループの没落を招いたのである)。しっかり安定した社会は、抵抗のバランスの上ではなく、意識的な自制の上に成立するものである。すなわち、われわれは常に道徳的な正義を優先させるべきだという立場にたたなけれならないのである。

 権利と義務、自由と責任−−ロシアだけの問題だけではないなあ。
 民主主義について

 民主主義の精神。−−(1)個人の自由、(2)法治国家。そして、その副次的な特徴、つまりなくてもいいもの。(1)議会制度。(2)普通選挙権。この最後の二つの原則は、絶対必要なものとはいえない。
 個人の尊重は、民主主義よりもずっと広い原則である。そして、ほかならぬこの原則こそ、厳密に守られなければならない。しかし、個人の尊重は、必ずしも議会制度というかたちで行われなければならないというわけではない。

 このあたりはソルジェニーツィンらしいけど、絶対的な個人至上主義というわけけではない。

 個人の権利をあまりに高めて、社会の権利の上に置いてもよくない。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が説いたように(1981年、フィリピンでの演説のなかで)国家の安全と人権が衝突した時は、国家の安全を優先させなければならない。つまり、それなくしては個人の生活も発展しえない、より大きな構造を大事に守らなければならない、ということである。

 ソルジェニーツィンはロシアに民主主義の必要性を強調するが、その一方で、民主主義に幻想も抱いていない。例えば...

 しかしながら、一般的にいって、いかなる投票制度も、どんな集計方法を用いても、しょせん真理の探求というわけにはいかないのである。結局のところ、すべては数の問題となり、足し算や引き算という単純な算数に帰して、多数が少数を吸収する結果になってしまうのである。だが、これは非常に危険な手段である。社会にとっては、少数の意志がその重要性において多数の意志に劣らないこともある。また、多数の意志が間違えることもある。「あなたは多数に従って悪を行ってはならない。あなたは訴訟において、多数に従って偏り、正義を曲げるような証言をしてはならない」(出エジプト記」第23章第2節)

 多数決が正しい答えに導いてくれるわけではない。聖書にも書いてあるんだなあ、多数必ずしも真ならず、という話が。

 わが国の卓越した国会議員であるV・A・マクラコーフは「国民の意志」は民主制のもとでも虚構にすぎない、国会議員の多数決で採択された決定だけが国民の意志とみなされる、としたのである。

 国会で衆参ともに多数派となった安倍政権は、もはや「国民の意志」として何でも決められる、ということか...。多数をとった政権が決めることはすべて「国民の意志」だと...。そういえば、そうだけど...。
 こんな話も

 選挙戦に勝つための能力は、国政を司る能力とはまったく別のものであり、両者のあいだには何の共通点もない。人間がその両方の能力をもっていることはきわめてまれであり、その場合でも、国政を司る能力は選挙運動での障害となるはずである。

 議員批判だけど、確かになあ。今の米国だと、オバマ大統領を思い浮かべる人もいるかも。選挙は強いけど、国政は頼りない...。で、こんな話も...

 「代議員になること」は、なかば職業となり、しかもほとんど一生の職業といってもいいものになってしまう。こうして「職業政治家」という階級が誕生し、これらの人びとにとっては政治が職業であり、所得を得る手段でもある。彼らは議会の駆引きに日々を過ごしているので、もはや「国民の意志」どころではないのである。

 日本では、政治家は職業ではなくて、家業になってきます、と教えてあげたくなったりして。いまや先祖代々の職業になりつつありますと...。職業というか、商売というか...。
 ロシアの歴史家、V・V・ローザノフの言葉として紹介されている言葉...

 「民主主義とは、よく組織された少数の助けを借りて、組織されていない多数を支配する方法である」

 なるほどねえ。そのお手伝いをするのが、官僚機構だけど、官僚機構自体が支配するようになったりもする。
 結局のところ、ソルジェニーツィンが理想とするのは、スイスのような直接民主主義がだ、これはお互いの顔が見えることが前提みたいなところがあって小空間でしか成立しない。それはソルジェニーツィンも知っている。ロシアのような巨大空間には不向きなのだが、この長所をどのようにロシアに導入していくのか、3層の代表者自治制度をソルジェニーツィンは提案している。そして、これは革命前のロシアにあった制度で、そこへの回帰でもあるという。フェースブックを知ったら、ソルジェニーツィンはどう考えただろう。ザッカーバーグのように、ネットに理想の社会をつくるツールとしての可能性を見たか、あるいは、テレビとは違った風を装いながら、その実、マスメディアよりもさらに洗練された洗脳装置としての負の側面を見たのか。このあたりも興味あるなあ。
 ともあれ、ソルジェニーツィン愛国心が感じられる本。そして、何度も思うのは、今のロシアを、プーチンのロシアを見たら、どんな感想を持つのか。しかも、ロシアで大衆的人気を持つ大統領がソルジェニーツィンの不倶戴天の敵とも言えるKGBの出身だと知ったら...。