- 作者: ジョージ・オーウェル,小野寺健,George Orwell
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1982/04/16
- メディア: 文庫
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なぜ書くか
絞首刑
象を撃つ
チャールズ・ディケンズ
鯨の腹の中でーーヘンリー・ミラーと現代の小説
書評ーーアドルフ・ヒットラー著『わが闘争』
思いつくままに
ラフルズとミス・ブランディッシューー探偵小説と現代文化
英国におけるユダヤ人差別
P・G・ウッドハウス弁護
ナショナリズムについて
出版の自由ーー『動物農場』序文
エッセイとしては、英国の植民地であったビルマ(ミャンマー)での警官時代の出来事を書いた「象を撃つ」が最も好きだし、短編エッセイの傑作だと思うが、現代の世相との絡みで言うと、1940年に書かれた『わが闘争』の書評が気になる。その中から抜書きすると、こんな風に書評は始まる。
わずか1年前にハースト・アンド・ブランケット社から出版された『わが闘争』の無削除版は、ヒットラー擁護の立場で編集されている。これこそ歴史の動きの早さを示すものだ。役者はその序文と注で、あきらかにこの本の残忍さを弱め、ヒットラーをできるかぎり好意のもてる人物に仕立てようとしている。というのも、当時のヒットラーはまだまともな人物だったからである。彼はドイツの労働運動を粉砕した。その結果、有産階級は彼のすることならたいていお目に見ようという気になった。左翼も右翼も、国家社会主義とは保守主義の一種にすぎないとする浅薄な見方では、一致していたのである。
ところがとつじょとして、ヒットラーはやはりまともな人物ではないということが明らかになったのだ。その一つの結果として、ハースト・アンド・ブランケット社の再版本には、本書から上がる利潤はすべて赤十字に寄付するという説明入りの、新しいカバーがついたのである。
リアルタイムで書かれているだけに当時の雰囲気を知ることができる。英国にはナチ・シンパがいたという話は聞くが、ドイツと戦争に入った年にヒットラーの『わが闘争』が好意の持てる政治家の本として出版され、戦争に入ってからも出版社は、利益は赤十字に寄付しますと言って出していたのだなあ。ちょっと苦しい言い訳だけど。
オーウェルはヒットラーが構想する帝国の愚かしさを指摘しながらも、ヒットラーをバカにしてはいない。ヒットラーが、なぜ、第3帝国のような途方もない計画を立てらたのか?
その生涯の一時期に、彼ならば社会主義者や共産主義者をつぶせるとみた重工業家たちが財政的援助を与えたからというのでは、あまりにも安易な解釈にすぎる。この重工業家たちにしても、彼がその弁舌に物を言わせて、一つの大きな運動が実現したかのような幻想をすでに与えていなかったら後援などしなかっただろう。失業者700万人というドイツの情勢が扇動家たちにとって有利だったことも、一面では当たっている。だが、ヒットラー自身の独自な個人的魅力がなかったなら、多くの競争相手を敵にまわして彼一人が成功するというわけにはいかなかっただろう。
凡百の批評家と違って、事実を率直に語るオーウェルはヒットラーに魅力があることを認める。こんな話も。
その魅力は『わが闘争』の不器用な文章からもうかがえるが、演説を聞いたとすれば、さぞかし圧倒的な力をもっているにちがいない。わたしは、自分が一度もヒットラーを嫌いになれなかったことを、はっきり言っておきたい。(略)わたしは、もし手の届くところまで近づければぜったいに彼を殺すだろうが、それでも個人的な敵意を抱くことはできまいと考えていた。
後段は、スペイン人民戦争で、ファシストと戦ったオーウェルらしいところ。といって、ヒットラーを英雄視しているわけではない。そうではなくて、本に掲載されているヒットラーの写真を見れば、魅力がわかるといって
それは憐れみをさそう犬のような顔というか、耐えがたい虐待に苦しんでいる男の顔である。やや男らしいところはあるものの、無数にある十字架上のキリストの絵の表情にそっくりなのだ。(略)彼は殉教者であり、犠牲者なのだ。岩につながれたプロメテウスであり、徒手空拳で自己をかえりみず耐えがたい不正と戦う英雄なのである。ねずみ一匹殺すにしても、彼はそれなりにうまく恐龍に見せる方法を知っている。(略)彼は運命と戦っている。勝つことはできまいがカテもいいではないかといった気持ちになる。こういうポーズはきわめて魅力的なものだ。映画の主題の大半はこれなのである。
英国人らしい皮肉が入っている。そして、これは今にも通じるのかもしれないが、得か損かという計算だけが人間を動くものではないことに触れる。
(ヒットラーは)人間が欲しがるのはかならずしも安楽、安全、労働時間の短さ、衛生、産児制限、また一般的に言って常識といったものばかりではないということもわかるのである。人間は、すくなくとも時によると、闘争とか自己犠牲をも望むものだし、太鼓とか旗とか観兵式などが好きなのは言うまでもない。経済理論としてはともかく、心理学的には、ファシズムとナチズムはいかなる快楽主義的人生観よりもはるかに強固なのである。おそらくスターリンの軍国主義的社会主義についても同じことが言えよう。3人の偉大な独裁者は、いずれもその国民に耐えがたい重荷を強制することによって、自己の権力を強化したのであった。
このあたりが時として忘れられるのだなあ。この問題は、1940年代で終わったと思ったのだが、今の世界を見ると、そうも言えなくなってきた。さらに続いて...
社会主義ばかりか資本主義のばあいにも(略)国民に向かって『諸君を幸せを約束する」と言っているのに対して、ヒットラーは「諸君には戦いと死を約束する」と言う。そしてその結果は、全国民が彼の足下に身を投げ出すのである。
イスラム国の話のようにも聞こえるが、戦前のドイツの話。人間の不思議な心理だなあ。締めくくりは...
殺戮と飢餓が何年も続いたあとでは「最大多数の最大幸福」というのはすばらしいスローガンになる。だが現在のところは「終わりなき恐怖よりも、恐怖とともに終わろう」というほうが効くのである。このスローガンを考えだした相手と闘っている以上、われわれはその心理的効果を過小評価してはならない。
昔話とはいえないなあ。長い平和が続いている日本では同じような現象が危惧されるのかもしれない。加えて「最大多数の最大幸福」が当たり前と思っている人ほど、「恐怖」と「憎悪」が人を動かす負の超絶パワーを過小評価しているようにみえる。
そんなこんなで、ジョージ・オーウェルの書いていることの意味が以前より実感できるようになっている気がするんだが、それは怖いことでもあるような気がする。教訓とすることだなあ。