オーランドー・ファイジズ『クリミア戦争』ーー英露帝国主義の戦争、異形の宗教戦争、そして新聞が生み出した戦争

クリミア戦争(上)

クリミア戦争(上)

 
クリミア戦争(下)

クリミア戦争(下)

 

  クリミア戦争というと、ナイチンゲール、そして映画にもなった軽騎兵の突撃の悲劇。そのぐらいのイメージしか知らなかった。どちらかというと、帝国主義の時代に起きた遠くの国の地味な局地戦という印象だったのだが、この本を読むと、この頃から近代的な戦争のシステムが生まれていったことがわかる。ナイチンゲールに象徴される戦傷者の医療・看護体制もそのひとつだった。出版当時、話題になった本だが、それが納得できる。戦争の生態学といった趣きもある。

 この本、戦争に至るまでの当時の欧州とオスマン・トルコの政治・社会状況の描写が長いのだが、知らないことが多く、刺激的だった。

 エルサレム聖墳墓教会では、ロシア正教徒とカトリック教徒がどちらが先に祈祷するかで対立し、死者まで出る乱闘を繰り広げる。それをイスラムであるオスマン・トルコが仲裁していたなどという話など初めて知る話であり、キリスト教内部での近親憎悪の激しさは、一神教的世界には縁遠い日本人の想像を絶する。カトリックのフランスだけでなく、プロテスタント系の英国もロシア正教に嫌悪感を持ち、イスラムに親近感を感じたりしている。ちょっと考えれない風景。

 この本の原題のサブタイトルは「The Last Crusade」、「最後の十字軍」であり、「最後の聖戦」だが、この「聖戦」、ロシア正教イスラムオスマン・トルコ)、カトリック(フランス)、プロテスタント(英国)連合の間での戦い。十字軍の内ゲバともいえ、キリスト教イスラムという現代の構図ではない。キリスト教内での憎悪の関係、複雑なのだなあ。ロシアはキリスト教徒がなぜイスラムと組むのかと怒るが、それももっとも。

 ロシア聖教には自分たちこそキリストの正統な継承者であり、東ローマ帝国の首都だったコンスタンティノープルイスタンブール)も、エルサレムも本来、自分たちに所属すべきだったという意識があったという。このあたりの考えも、カトリックプロテスタントにとっては認められるものではない。ともあれ、読んでいると、当時のカトリックプロテスタントも西欧キリスト教が東のロシア聖教を生理的レベルでまで嫌っていたことがわかり、興味深い。

  もっとも、クリミア戦争の背景にあるのは当然、宗教だけではなく、それぞれの覇権を競う帝国主義。すでに弱体化し、死臭漂うオスマン・トルコを前に英国・ロシアがハイエナのように、オスマン帝国の支配地域だった東欧・中東をどう切り分けようかという分捕り合戦に加え、英国は、ロシアがクリミアからトルコ、そしてイラン、アフガニスタンを抜け、英国の植民地だったインドに進出してくることを警戒していた。大英帝国ロシア帝国のガチンコ対決。英国内の対ロ強硬派は、そうした文脈のなかで、ロシアとの戦争を主張した。

 このあたりの英国のロシアに対する警戒感を知ると、なぜ日英同盟が締結されたのかも理解できる。太平洋側からアジアへ南下してくることを防ぐ。利用できるものは何でも利用する。それに日本の軍備強化で、軍艦を日本に売ることもでき、商売にもなる。そうと考えると、帝国の行動様式は英国も米国も変わらないのだと思えてくる。

 冒頭に書いたように、この戦争は新しいタイプの戦争へと変わっていく転換点ともいえる戦争だった。英国の対ロ強硬派は、新聞によって開戦論を煽り、世論も政府にロシアとの戦争を迫る。クリミア戦争は新聞がつくった戦争の草分けだったという。アメリカとスペインの米西戦争は新聞がつくった戦争として知られるが、これが1989年。クリミア戦争は1853~1856年だから、メディアが作り出した最初の戦争はクリミア戦争だったのだろう。

 このほか、ナイチンゲールに象徴される戦場における医療・看護体制の整備、フランス革命で国民軍となったフランス軍がつくった給食制度(この当時、英国兵は自給自足)など新たな仕組みが導入されたのも、この戦争だったらしい。国民軍という概念自体、フランス革命が生んだもので、このころでも英国に、徴兵制はなく、酒場などでカネに困った人々を集めてきていたとか。一方で、将校たちは貴族の縁故採用みたいなもので、能力よりも家柄が優先されることも珍しくなく、英国もロシアも将軍たちの無能さが死傷者を増やすことにもなっていた。

 この時代、改めて振り返ると、ポーランドはロシアの支配下にあり、イタリアはまだ統一されておらず、バルカン半島、東欧はオスマン・トルコの領土だった。いま知っている地図とは全く違う世界だった。オスマン・トルコ帝国もハプスブルク帝国も、その支配力は揺らぎつつあり、英国も、ロシアも、その揺らぎを自らの帝国の拡大に利用しようとしていた時代。クリミア戦争が開戦した1853年は、日本でいえば幕末の嘉永6年、ペリー来航の年。このころは欧州もまだ混沌としていたのだな。

 やはり歴史は面白い。ナポレオン戦争と第1次世界大戦の間に起きた地域紛争に見える出来事のなかにも、さまざまなドラマがあり、教訓があったことを知る。

 最後に目次を紹介すると

第1章 宗教紛争

第2章 東方問題

第3章 ロシアの脅威

第4章「欧州協調」の終焉

第5章 擬似戦争

第6章 ドナウ両公国をめぐる攻防

第7章 アリマ川の戦い

第8章 秋のセヴァストポリ

第9章 冬将軍

第10章 大砲の餌食

第11章 セヴァストポリ陥落

第12章 パリ和平会議と戦後の新秩序

  ロシア軍砲兵隊に正面攻撃をかけて英国軽騎兵部隊が壊滅した「軽騎兵の突撃」を描いた映画としては

 将軍たちの愚かさが描かれていた映画だったが、本を読んでも、本当にひどかったらしい。