半藤一利+保阪正康「昭和の名将と愚将」

昭和の名将と愚将 (文春新書 618)

昭和の名将と愚将 (文春新書 618)

 昭和史のエキスパートである半藤一利保阪正康の両氏が陸海軍の将軍たちの人物評を展開する対談集。名将は、硫黄島で有名な栗林忠道を筆頭に、山下奉文、米内光政、今村均山本五十六らが並ぶ。一方の愚将は、辻政信、服部卓四郎、牟田口廉也、瀬島龍三らが挙げられる。結局のところ、作戦・戦闘能力、リーダーシップ、知性、人望だけではなく、あるいは、それ以上に、責任と倫理について、どれだけ真剣に厳しく考え、身を律しているかにある。愚将と分類された人は結局、無責任。そして、その無責任を許していたのが、派閥と学歴(陸軍大学、海軍大学校における年次と成績)であったというのは情けない。軍の中枢は、幼年学校から純粋培養されたエリートたちが就き、愚行を重ね、兵士を死に追いやる。名将とされた人は、栗林も今村も一般中学の卒業組。この本を読んでいるうちに、敗戦直後に書かれた永野護の「敗戦真相記」のなかにあった一節を思い出した。

 日本軍部の独善主義はそもそも何故によって招来されたかということを深く掘り下げると、幼年学校教育という神秘的な深淵が底のほうに横たわっていることを、我々は発見させざるを得ません。これまで陸軍の枢要ポストのほとんど全部は幼年校の出身者によって占有されており、したがって日本の政治というものはある意味で、幼年校に支配されていたと言っていいぐらいですが、この幼年校教育というものは、精神的にも身体的にも全く白紙な少年時代から、極端な天皇中心の神国選民主義、軍国主義、独善的画一主義を強制され注入されるのです。こうした幼年校出身者の支配する軍部の動向が世間知らずで独善的かつ排他的な気風を持つのは、むしろ必然といえましょう。
永野護敗戦真相記―予告されていた平成日本の没落

 戦争は独善では勝てない。まして、世間知らずでは、相手の出方も分からないし、部下の心も分からない。結局、視野が広く、常識のある人間が有能な将軍だったのだなあ。そして何より身内に対してではなく、社会全体に対する責任感。大体、トップが無責任では部下は付いていかないし、規律も保てない。士気は上がらず、強い組織ができようはずもない。
 ただ、人生が皮肉なのは、名将たちは名を残すが、実は乏しい。責任感が強い名将たちは、ある者は戦場に倒れ、ある者は戦犯としての責任を部下に押しし付けたりなどせず処刑され、また生き残った者も武勇を誇るでもなく静かに隠棲してしまう。一方で、愚将たちは責任逃れの名人だから、戦後も生き長らえ、戦犯追及からも逃げ切り、自分に都合のいい歴史を語る。
 ノモンハンであれだけの失敗をした辻政信が軍の中枢に復帰するなど考えられないことだ。派閥人事のほうが能力主義人事よりも強かったのだ。能力は結果ではなく、イメージで評価されるのが派閥人事の派閥人事たるところだろう。辻はその後、シンガポールで華僑虐殺を指揮したと言われる。シンガポールリー・クアン・ユー九死に一生を得た一人であり、このときの怨念は終生、変わっていなかったのではないかと思われるところがある。自伝にも、この話は出てくるし、インタビューの中でも日本人に対する憎しみを吐露するときがある。辻は、アジアで反日感情を激化させた元凶のひとりなのだが、それでも戦後、参議院議員になったりしている。愚将は世渡りがうまい。
 こうした無責任の構造は陸軍だけではなく、海軍も変わらなかったという。問題が起きても、とことん責任を追及しない。身内に対する甘さをみると、海軍も官僚機構だったんだなあ。米内光政、井上成美、山本五十六という知性派がいるから海軍のイメージは高いが、みんながこの三人と同じだったわけではない。むしろ、南部仏印進駐で日米戦争を不可避にしたのは海軍の強硬派だったという。そして、この人物たちも戦争で死ぬことはなかった。
 この本を読んでいて、改めて思うのは、名将と愚将の理不尽な構造は、日本の組織のある部分、DNAになってしまっているのではないかんだろうかということ。官僚機構はもちろん、企業でも往々にしてみられるが、建前はどうであれ、派閥と学歴が人事を支配するのは今もあまり変わらないところがある。だから、戦記物はいまでも人気があるんだろうなあ。ああ、これと同じような話って、どこかで聞いたことあるよなあ、って。幼年学校の話にしても、中高一貫の受験校から東大へいって国や企業の高級官僚になる構図は、ある意味、同質で独善的なエリート層を再生産していくシステムになりかねない危険性を持っているような・・・。