木村敏「時間と自己」

時間と自己 (中公新書 (674))

時間と自己 (中公新書 (674))

 精神病理学から見た「時間」。そのコアとなるのは、以下の部分。

 われわれは、分裂病者の未知なる未来との親近性を、「祭の前」を意味する「アンテ・フェストゥム」の概念で捉え、一方鬱病者における既存の役割的秩序との新規性を、「祭の後」を意味する「ポスト・フェストゥム」の概念で理解してきた。この「祭」(フェストゥム)という語は、特別な意図もなく、いわば偶然に見出された表現であったけれども、ここで第三の狂気の本質的な特徴を「祝祭的な現在の優位」という形で取り出してみると、われわれはそこに、もはや偶然では済まされない一つの符号を見出すことになる。われわれは第三の狂気に、「祭のさなか」を意味する「イントラ・フェストゥム」の形容を与えようと思う。イントラ・フェストゥム的意識に特徴的な時間構造は、いうまでもなく、現在への密着ないしは永遠の現在の現前である。

 こうした視点から時間を考える方法があったんだなあ。分裂病の時間も、鬱病の時間も興味深いが、特に印象深いのは、むしろ第三のケース。癲癇が例として挙げられているが、患者の視点から見ると、癲癇の発作は、現在が現在のまま停止し、現在が怒濤のように押し寄せ、炸裂することを、ドストエフスキーの「白痴」や「悪霊」などの著作を例に紹介している。ドストエフスキーは癲癇患者だったらしい。文学で描かれた、癲癇の瞬間は圧倒的なイントラ・フェストゥムという感じがする。