ヴァージニア・ヘンダーソン『看護の基本となるもの』

看護の基本となるもの

看護の基本となるもの

 知り合いの看護師さんが、この本に看護の本質が書かれていると言っていたので、興味を持って、読んでみた。訳者あとがきを入れても90ページという薄い本なのだが、確かに中身は濃かった。看護の基本を知ると同時に、看護とは人間をケアすることだから、人間を考えることにもなる。素人が読んでも、刺激的だった。こういうプロ向けの教科書は意外と面白かったりする。
 面白かったところを思いつくままに抜書きすると...

 人間には共通の欲求があると知ることは重要であるが、それらの欲求がふたつとして同じもののない無限に多様の生活様式によって満たされているということを知らねばならない。このことは、看護師がいかに賢明でも、また一生懸命努めようとも、一人ひとりが求めることすべてを完全には理解できないし、その人の充足感に合致するように要求を満たすこともできない、ということを意味している。看護師にできるのはただ、看護師自身が考えている意味ではなく、看護を受けるその人にとっての意味における健康、その人にとっての意味における病気からの回復、その人にとっての意味におけるよき死、に資するようにその人が行動するのを助けることである。

 深いなあ。すべてを知ることはできないという謙虚さが哲学者風でもある。
 看護活動として「患者が衣服を選択し、着たり脱いだりすることを助ける」ことについて...

患者が選ぶ衣類や装身具は彼の個性を表現する。自分の意にそぐわない衣類をおしつけられれば、患者は少なからず滅入り、いらいらするにちがいない。自分の外見をよく見せている、あるいは社会的に望ましい身分を示していると思えるような服装をしていると、人の自尊心は高まる。その逆もまた真である。衣類を奪われること、また身に着ける衣類の選択を許されないこと、これらはいずれも精神の自由の喪失であり、“新人いじめ”や刑罰のひとつの形として用いられてきた。

 なるほどねえ。ファッション論であり、監獄論であり、暴力論でもある。精神の自由は制服をなくすところから始まるのかもしれない。そうなると、教育論、イノベーション論にもつながる。それはさておき、自分の知り合いの病人を思い出しても、着るものや化粧によってシャキッとする人がいた。ファッションは精神、そして健康につながる大切な要素なのだな、看護論から見ても。
 「患者が身体を清潔に保ち、身だしなみよく、また皮膚を保護すること助ける」のも看護だが、そこでは患者がなるべく自分でやるように指導すべきだという。従来は、手を貸して患者を助ける看護だったのだが、最近は患者の自立へと変化している。この理由はいくつかある。

この変化は、病気のあいだの身体的ならびに情緒的な依存はやめさせるべきであり、正常な身体の機能にとって活動は必須である、という考え方がもたらしたのである。こうした患者にとって最終的によいことを考えるのはさておき、現実の問題として、看護の時間がないという問題、つまり患者が床につきっきりのときに、見苦しくなく、気分もよいように整えるのに必要な身体的ケアを行うのに加えて、今日の集中的治療プログラムをこなしていく、そうした看護時間をうみ出すのはむずかしい、という問題がある。
現在のように混みあっている病院の状況では、人に頼るということは楽しみであるよりはむしろ恐ろしいことである。小人数家族になる傾向、およびそうした家族のなかで多くの女性が職業をもっているという事態は、自宅で療養している人にセルフケアを余儀なくさせている。過去25年のあいだに訓練を受けた看護職者の数は著しく増してきたが、彼らのサービスの需要の高まりに応えるほどにふえていない。多くの国で人口に対する医師の比率が増加していないので、高度の訓練を受けた看護師が以前は医師がしていた仕事を次から次へと引き受けている。

 ここに書かれているのは米国の事情だが、日本でも変わらないだろう。社会や家族の変化が看護も変えていくのだなあ。このあたりは社会学でもあり、社会福祉論にもつながる。
 で、こうした変化の中で、専門職看護師は発想を変えなければならないと説く。

 もし自分が患者の身体的ケアを一切しなくなると、安楽の与え手という自分の役割がサービスの受け手である人々から得ている信頼を失うことになるかもしれないと知るべきである。看護師は苦痛を伴う処置にばかりかかわるようになり、また人に好かれない“ボス”の役割、つまり自らは何もしないで他者に指示するという役割をとることになりかねない。
 “専門職”看護師にとってより重大な損失となることは、患者に沐浴させながらその話を聞き、観察し、何かを説明し、安心させる、といった患者と共に過ごす時間を奪われるということである。看護師が患者の身じまいを助けるのをやめるのなら、自分が正確に把握したい欲求の持ち主である患者と自然で自発的な会話をする別の機会を、毎日の動きのなかに見出さねばならない。

 「白衣の天使」というイメージの看護師さんたちも構造変化のなかで自己革新を迫られているのだなあ。これって環境変化への対応を迫られるマネジメント論にもつながるような。ドラッカーが「非営利組織」のマネジメントを研究していたのがわかる。
 続いて、「患者の生産的な活動あるいは職業を助ける」看護について

多くの人にとって満足とは自分が社会に認められていることであり、その社会が認めるということは、その人に生産性があるということである。男性でも女性でも病人が何か仕事ができるとしたら、病気の恐ろしさはいくらか少なくなる。延々と長引く床上生活を是としない今日の行き方の一部には、人間が活動しない状態にいることから生じがちな自らの無価値観の高まりがあずかっている。人は精神的に生産的であれば、身体的に限界があっても、ベッドにしばられて年月を過ごしながら円熟した老年まで生きることができる。たとえば、フロレンス・ナイチンゲールは、その人生の大半を自室にこもって過ごしたが、またそのほとんどを病床に臥していたのだが、彼女の書いた多くの手紙が集められてみると、彼女が実に膨大な数の文通をしていたことが明らかになった。彼女が“病弱”の身でありながら成し遂げた仕事は、彼女が、いわゆる“活動”していた頃に行ったことに勝るとも劣らず非凡で価値あることである。

 仕事と人間。社会と人間の話。患者を精神的に支えるものは何か、という話であると同時に、社会的・政治的安定のために、いかに雇用が重要かということにもつながる。
 「不治の病」について…

いまだに非常に多くの病気がいわゆる“不治”の病とされているが、不治といってもそれはたいてい、それらの疾病の原因をわれわれが知らないという意味なのである。

 そのとおりだな。いたずらに悲観しても意味がない。
 結論として、看護師の目的…

看護師が銘記すべき変わらぬ目的は、可能であれば患者の自立性を取り戻す、逃れることのできない制限内で患者ができるだけ有意義に生きるのを助ける、“安らかに昇天した”と言えるように患者の避けられない死を受け止める、である。

 で、最後にまとめとして、看護の機能。

 病人であれ健康人であれ各人が、健康、あるいは健康の回復(あるいは平和な死)に資するような行動をするのを援助すること。その人が必要なだけの体力と意思力と知識をもっていれば、これらの行動は他者の援助を得なくても可能であろう。各人ができるだけ早く自立できるように助けることも看護の機能である。

 これに具体的な14の機能が続くのだが、ともあれ、その道のプロフェッショナルの本は面白い。新しい発見があり、看護だけにとどまらないヒントがある。それにコンパクトであるところが、忙しい人に向いている。看護師さんって忙しそうだからなあ。それも考えた本なのだな。
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