エマニュエル・トッド「経済幻想」

経済幻想

経済幻想

 エマニュエル・トッドがこれまで同様、家族構造などを通して世界を概観する。今回のテーマは経済体制。米英の資本主義と日独の資本主義の違いについては、ミシェル・アルベールの「資本主義対資本主義」という名著があったが、これをトッドは、米英の核家族個人主義的家族構造に基づく経済体制と、ドイツ、日本の直系家族主義による経済システムとに分解する。
 で、印象に残ったところは、

 一九四五年以降、中間層のめざましい興隆があったが、これは、多様な教育訓練の開放をともなっていた。こうして新しい資格が登場してくるにつれ、六〇年代の中頃から、不平等を社会的価値とする教義が再び登場し、七〇年代初頭からアメリカで、実際上の経済的不平等が拡大した。このように教育水準に開きができることによって、社会は、階層化され、分解され、細分化された。そのことにより、平等の理想は傷つけられた。また、国民の同質性も壊された。というのも、完成された国民概念とは、本質上、平等な個人の連合だからである。

 これが、この本の基本認識となる。で、家族と教育

 産業社会やポスト産業社会においても、家族は、初等・中等そして高等教育においてさえ、直接的間接的基盤としての役割を果たす。統括力の強い家族制度は、長期的学習に有利に働く。もっと個人主義的な家族制度は、このような効率を達成する能力が強くない。家族の価値観や家族形態の影響は目に見えにくいこともあるが、こんにちその影響は教育的な領域に限定されるものではない。経済活動自身が、この人類学的観点からみた制度により、強く類型化され調整されている。

 文化と経済については

 国民レベルの共同的信念を衰退させた原因は、経済ではなく、精神の自律的変化にある。時代を特徴づける文化的分裂と衰退が、平等観と集団の統一への信頼をだめにしたのである。本書で、わたしは、国民の内部分裂と経済的グローバリゼーションをつなぐ論理は、一般に認められているものとは逆でであることを証明しようと思う。平等というものの価値の下落が国民レベルの共同的信念の瓦解を招き、それが、今度は、経済グローバリゼーションの運動を決定するのである。因果連関は、精神を出発点とし、経済に到達する。

 なるほど。この本は、1998年の出版だが、時代は一巡りして、オバマの登場は必然だったのかもしれないなあ。
 そして、家族の形態について

 絶対的核家族自由主義的で非平等主義的なことが、アングロサクソン社会の特徴である。そこでは、子ども達の早い独立と厳密な相続規則の不在とが結びついている。親と子どもの早期の別離が、この制度を核家族とし、遺言の使用が非平等主義となる。これは、あらゆる家族類型の中で最も個人主義的で、親から子をできるだけ早く引き離し、兄弟間に均等な関係を築くことを拒絶する。これは、イギリスと旧植民地、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの親イギリス的な地域の特徴である。アメリカでは、このモデルのほとんどヒステリー化された形がとられており、アメリカ社会の経験的性質から意識的にそうなっている。

 これに対して、日本、ドイツ、韓国、スウェーデンは直系家族に分類される。直系家族とは、

 権威主義的で不平等である。農村では、たいていは長男が唯一の相続人となるが、他の子どもは、男の相続人のいない農家の跡取り娘と結婚するか、僧侶や兵士になるか、あるいは、他の方法で土地を出ていなければならない。この制度は、家族生活・社会生活についての非個人主義的考えを前提としている。人類学的分析により、その効率性が証明される。

 確かに、日独韓スウェーデン、どの国の経済も発展した。日独韓には米国経済の悪化により、行き詰まり感が見えるが、スウェーデンは安定成長を続けているようにみえる。そのスウェーデンについて

 スウェーデンは、世界で最も高い教育水準の一つを維持することで、人口面で「落ち込む」ことを免れた。この国は、他の大部分の国がぶつかった天井に穴を開けた。この個別的ケースは、普遍的かつ楽観的な意味を持っている。この例は、先進諸国の発展を妨げる文化的限界は、見た目ほど絶対的なものではないことを示唆している。現在の停滞状況は、人類史の超えがたい頂上というより、階段の踊り場を表しているのかもしれない。

 スウェーデンについて勉強してみるかな。一方、日独型資本主義について

 統合された資本主義では、企業の実際の目的は利潤の最適化、株主の満足ではなく、生産の完成と拡張による市場シェアの支配である。イデオロギー上では、生産者が王である。技術進歩と労働者の技能への傾倒は、甚だしい。品質に優れていなければならないのである。消費者は控えめな主体にすぎず、システムの論理は、消費を必要悪として扱うと明言しそうにさえみえる。基幹労働者の安定性は、このような優先事項の社会経済的な表れである。このモデルのいくつかの側面、とりわけ過少消費の傾向は、内部で引き受けられない。しがたって全体需要は、構造的に不足する。ドイツと日本は、その産業システムによって生み出された全生産財を、内部で消費することはできない。アングロサクソン型資本主義と同じく、日独型資本主義も、内的統一性と不均衡を有している。輸出は一つの生存条件であり、その二重のネガ、すなわち、輸入資本主義の存在を必要としている。

 この「不均衡」が顕在化して、苦しんでいるのが今だなあ。で、

 「直系家族型資本主義」の特徴である投資のための高い貯蓄性向は、この時間に対する関係の特殊経済的・会計学的表れにすぎない。貯蓄し、投資することは、未来に賭けることである。逆に、現在の消費に吸収され、負債の中に逃げることは、対の論理から、核家族の精神世界に起因する。二つの資本主義は、それぞれ、特定の人類学的システムーー個人主義的資本主義は絶対核家族、統合的資本主義は直系家族ーーの論理の働きから生じている。しかし、二つの人類学的類型における経済的潜在能力の奇妙な総合依存的発達は、相互交流すなわち国際貿易がなければ起こらなかったということに注意すべきである。つまり、日本やドイツが過少消費傾向を表したのは、彼らが輸出できたからであり、アメリカが過剰消費傾向を表したのは、輸入できたからである。開放体制は、システムの収斂をもたらしのたではなく、その差別化をもたらした。

 そして、この幸福な関係は、日独、特に日本の製造業の強さによって米国の製造業が破壊され、安定した雇用と賃金水準が失われ、購買力が低下することで、「需要不足」の問題を浮上させる。
 知識人というときも、かつては科学者や技術者など製造業の人種を指したが、いまや弁護士やメディアなどのサービス系の人種のことになっているという。そして、その役割も変質する。

 一九五〇年から一九七〇年までのメリトクラシーは、自然を支配し、そこから社会全体のために生産性上昇を引き出したのに対して、二〇〇〇年のメリトクラシーは、社会を支配し、そこから彼ら自身のために所得を引き出すのである。

 “強盗紳士”の時代かあ。洗練されて見えるだけ、今のほうがタチが悪いか。

 アメリカでは、企業経営者は、ハーバード・ビジネス・スクールのような機関で教育されたジェネラリストがますます多くなり、彼らの、企業家や各部門の技術を真に習得している技術者を追い出すのに長けている。

 今のビジネス世界の風景だなあ。そして製造業が衰退していく。で、現代の心的風景について

 今日、さまざまな単一思考が、グローバリゼーション・世界化という概念を使って拡張を想起させるような言葉を弄んでいるが、実際の経済活動は収縮しており、既存のものが失われる心配がある。共同的信念の内部破裂によって縮まった個人は、より多くを得ようとするのではなく、他人より失うものが少ないことを求めるのである。先進社会を動かしている基本的メカニズムは、避難のメカニズムである。企業は、征服したり、建設するよりも、生き残ることを願っている。老人達は、自分の年金を考え、後は、野となれ山となれである。企業リーダーの現在の野望は、賃金総額とストック・オプションのボーナスを増やすことだと言われているが、それは今世紀初頭の企業家達が行った熱狂的な生産的蓄積とは何の関係もない。ここにも、後は野となれ山となれ戦略が作動している。出来るだけかき集め、後は、逃げ去り、そして、要塞に立てこもり、輝かしい老後をおくるのである。資本主義の歴史的重要性に敏感であり、権力を掌握したブルジョワの楽観主義の時代に生きたマルクスは、ゼロ思考の世界を軽蔑するだろう。

 これまた現代の風景を描写しているなあ。マルクスの描いた資本主義よりも、もっと虚無的な資本主義の世界か。明日を信じていない者の享楽的、刹那的な資本主義かあ。
 で、最後に、おまけ。

 国民という共同的信念の出現は、普遍的現象であり、大衆の識字と宗教的信仰の衰退に結びついている。

 これも、なるほどね。以前、エマニュエル・トッドの本を読んだときも、思ったけど、イランの未来がどうなるかだなあ。