ロバート・スキデルスキー「なにがケインズを復活させたのか?」

なにがケインズを復活させたのか?

なにがケインズを復活させたのか?

 ケインズの伝記で有名なロバート・スキデルスキーが、今回の金融危機を契機に、ケインズ経済学の意味と、その後の市場原理主義的な経済学の台頭、そして今回の危機、金融制度、経済・財政政策におけるケインズの現代的意義について論じる。そうした現代的意義も面白いのだが、それ以上に面白かったのは、ケインズ経済学が生まれた背景、その時代とケインズその人の人生についても、おさらいしてあること。
 ケインズが投資で儲けていたのは有名な話だが、スキデルスキーはいまでいえば、ヘッジファンド創始者という。しかも、三度も破産の危機に瀕したという(ちょっと、LTCMを思い出してしまう)。この本を読むと、投資対象も多彩で、為替、株式、商品など、レバレッジを効かせてやっていたようなので、半端な投資家ではない。しかし、だからこそ、市場の生理を知った上での経済学になっていたと納得。
 スキデルスキーは、ソロスやバフェットが経済学を論じていたようなものというが、なるほど、それだと、政策決定者に対しても影響力を持つだろう。机上の論理とは違うから。合理的期待論など市場主義的・原理主義的経済学が論理を突き詰めて生まれたものであるのに対して、ケインズの経済学は、市場のなかから、それも危機の処方箋として生まれてきたことを、本を読んで改めて納得する(ちなみに、市場派の経済学というのは、NHKでいま放映している「ハーバード白熱教室」の政治哲学講義を聴いていると、人間の根源的な権利は何かという哲学的な認識から生まれていることがわかる。この番組、面白い)。
 で、読んで面白かった部分の抜き書き。フランスの友人に手紙で知らせたケインズの投資哲学。

「投資家の原則は少数派の立場をとることではありませんか。投資は、人生と活動のなかで唯一、勝利と安全を得られるのがつねに少数派であって多数派ではない分野です。誰かが自分の意見に賛成するようなら、意見を変えるべきです。わたしが株式を買うよう保険会社の取締役会を説得できたときは、これまでの経験から学んだ点ですが、まさに売り時になっています」

 これは1932年というから、大恐慌のさなか、ケインズが米国の大手公益事業持ち株会社優先株や絵画、稀覯本を買っていた時期の手紙。本来価値よりも売られすぎているという判断だったらしい。バリュー投資だったのか。
 次に通貨について

 ケインズは通貨が交換手段であるだけでなく、「価値保蔵」の手段でもあると考えた。通貨とは、「何よりも将来と結びつける巧妙な手段」なのだ。

 なるほど。で、経済学についてケインズの言葉。

 経済学は社会(モラル)科学です。・・・内省と価値を扱います。・・・動機と予想と心理的な不確実性を扱います。対象を一定不変で均質のものとして扱いたくなる誘惑にいつも抵抗しなければなりません。経済学ではいってみれば、リンゴが地面に落ちる現象をリンゴの動機や、地面に落ちる価値があるかどうか、リンゴが落ちるのを地面の側が望んでいるのかどうか、地球の中心までの距離に関するリンゴの計算の間違いといった点に左右されるものとして扱うのです。

 リンゴの話が出てくるのは、ケインズは経済学をニュートン型の枠組みで見る考えを否定したから。経済学は物理学、数学ではないというわけ。分析のために数学は必要ではあるが、それで全て解ける世界ではない。
 次に、ケインズと金銭について。なぜ、金銭に執着するのか。

 金銭的な利益を過大に考える傾向は、安さへの執着にあらわれているといえる。ケインズによれば、広告による標準化のために、「特異性の価格が上がった」という。誰もがまったく同じものを消費するのであれば、価格ははるかに下がり、誰もが「豊かになる」。しかし、多様性は本質的に良いことである。あらゆるものについて、金額で考えるのは良いことではない。具体的なものを具体的なものと比較して考えるべきであって、抽象的な金銭で考えるべきではない。「金銭の最終的な目標は漠然としか考えていないか、まったく考えていない」のだから。

 そしてケインズの言葉が続く。

 金銭でものの価値を考える見方のために、具体的なものを抽象的な金銭で考える分野が拡大しつづけることになる。人の想像力は弱すぎるので、具体的なもののなかで選択することができない。そこで、抽象的な金銭が大きな影響力をもつようになる。貯蓄の崇拝によって、抽象的な金銭が危険なほど重視されるようになる。個人の富の増加でも同じ傾向が生まれる。

 なるほど。高いものは良いものだ、という主客転倒の世界。スキデルスキーは、こう付言する。

 金融のイノベーションによって債券や株式などの証券は「抽象的」になり、裏付けとなっている事業との関係が希薄になってきた。

 ケインズが望んでいた世界とは反対の方向。次に政府についてケインズの言葉。

 「わたしにとって問題なのは、政府に国民を惨めにする権利があるかという点ではない。国民を幸せにすることに政府が関心をもっていないのかという点である。これは法的な観点から問題ないと弁護士が教えてくれることではない。人道、理性、正義の観点から行うべき点である」

 いまの日本を含め、いつの世も、どの国にも通じる問題。次に政府の役割について。レーガンサッチャーの自由市場イデオロギーは、適者生存などダーウィンの考えが基本にあったという。で・・・

 ケインズは経済学のダーウィン流仮説を冷笑していた。不確実性の存在、競争がもたらすコスト、生産と富が集中する流れを無視しているからだ。そこでケインズは、基本的に国の介入を公共財だとする主張を開発した。それぞれの時代に、「政府が『なすべきこと』と『なさざるべきこと』をあらためて区別する」べきである。社会的なものに分類すべき業務を、個人的なものに分類すべき業務から切り離さなければならず、新たに「なすべきこと」のうちとくに重要な点は、第一に通貨と信用の管理、第二に「リスクと不確実性、無知」から生じる害悪を治療するための情報の公開、第三に社会の貯蓄の国内投資と対外投資への配分に関する全体的な判断、第四に人口の規模と国民の素質とに注意を払う人口政策である。

 う〜ん。これも現代に通じるなあ。ケインズは経済の社会化、「公的な法人」に期待していた。所有と経営の分離。組織の時代といってもいいかもしれない。しかし・・・

 ケインズは自分が賞賛している形態の社会組織の血管も十分に認識していた。保守主義が強まり、企業の活力が弱まるのだ。しかし、「金銭愛」を社会の基礎にすることを嫌うあまり、中道の道の考え方にあるもうひとつの決定的な弱点を見逃している。経済学者が後にエージェント問題と呼ぶようになる点。つまり本人と代理人の関係の問題である。ケインズ所有と経営の分離によって、社会的な動機が大企業の行動を決めるようになっていくと考えた。経営者の私益が社内的にも社会的にも優先されるようになり、金融セクターの成長でその傾向が極端に強まることを予想できなかった。ケインズは(略)、大企業を経営者が管理するようになって、「社会的動機」が拡大すると考えた。巨額のボーナスが支払われるようになって、株主からも幅広い社会からも金銭を巻き上げる動機を経営陣に与えるようになるとは予想もしていなかった。

 世界は哲学的にも行き詰まっているんだな。で、こんな一節が

 大きな失敗があれば、基本的な考え方を見直すように迫られる。現在の経済危機は、市場システムの大きな失敗である。ジョージ・ソロスが正しい指摘を行っている。「現在の金融危機の目立った特徴は、OPECの動きなどの外的ショックによるものではない点である。・・・この危機はシステムそのものによって生み出されている」。危機の震源は、世界金融システムの中心、金融イノベーションの多くの源泉であるアメリカである。だからこそ、世界的な危機、グローバル化の危機なのだ。しかし、今回の危機でイデオロギーと理論の空白があることも明らかになった。以前ならば左派から資本主義に挑戦する動きが起こったはずだが、いまでは、資本主義に反対する世界的な勢力が消えているのである。

 そうだなあ。形骸化した社会主義は残っていても、現代的な問題に真摯に答える人がいるのかどうか。先祖帰りでは答えにならないし。で、それはそれとして、どこの国でも、リベラル派と保守派の相克があるが、米国もサイクルがある。で、その点について

 アーサー・シュレジンガー・ジュニアは『アメリカ史のサイクル』(1986年)で、政治経済サイクルを「公共の目的と民間の利益との間で政府の関与がつねに変化すること」と定義している。そして「リベラル派」(ヨーロッパの言葉では「社会民主主義」)と保守派の間で交代するという。ここでは「危機」の見方が中心になっている。リベラル派の時代は権力の腐敗で危機に陥る。理想主義者よりご都合主義の政治家が力をもつようになり、政治の利権漁りに対する保守派の批判が支持を集めるようになる。しかし保守派の時代は金銭の腐敗で危機に陥る。金融家や経営者が規制緩和で得た自由を使って、社会から金を巻き上げるようになるからだ。規制の緩い市場での危機は、リベラル派の時代への回帰の前兆となる。

 これは米国の政治はあてはまる。日本はどうだろう。自由民主党も、民主党も、危機の形態はリベラル型か? で、こんな一節。

 リベラル派と社会民主主義の危機は1970年代にスタグフレーションと統治能力の喪失という形であらわれており、シュレジンガーのいう「権力の腐敗」に概ね一致する。ケインズ派社会民主主義の政策担当者は傲慢になり、知的な謙虚さを失って、経済と社会を上から管理し制御できる知識とツールをもっていると考えるようになった。ハイエクが『隷属への道』で痛烈に批判した弊害があらわれたのである。

 かくして欧米では、レーガンサッチャーの反ケインズ、市場主義的な保守主義へと進むのだが、日本は例外だった。小泉改革といわれた一時期を除き、保守主義の時代はほとんどなく、ずっと社民的な官僚主導だった気がする。「権力の腐敗」の清算がないまま、新保守主義の崩壊に入ってしまった。で、一時代前の社民主義の中にいる。本を読んでいて、そんな感じがする。いやはや。
 で、最後に金融制度改革としては、スキデルスキーは、グラス・スティーガル法の復活論だった。公益型の銀行と投資銀行型を分け、公益型は最後まで救済する。投資銀行は、利益追求に走ってもいいけど、救済はしない。ということは、救済しないで済むように、規模は限定的ということだろうけど。いわゆるナローバンク論だった。
 ともあれ、ケインズが取り扱った経済問題はきわめて今日的だった。いまの時代を考える上で、刺激的な本でした。