関東大震災の復興予算。当時も議会は政争の場で、予算成立まで半年を浪費した

 神様は意地悪で、内閣が弱体だったり、政争の時に大災害を起こす。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災。年表*1を眺めていたら、9月2日に第2次山本権兵衛内閣発足とある。山本が外相を兼務し、内務大臣に後藤新平、大蔵大臣が井上準之助という人材を揃えた内閣だが、震災の翌日に大胆な組閣と感心したのだが、年表をさかのぼってみると、「8月24日加藤友三郎首相病没、8月25日内田康哉外相、臨時首相に就任」とある。ということは、9月1日、震災の日、日本は臨時首相だったのだ。うーむ。
 で、山本内閣は後藤内相が中心となって復興復旧計画を立て、3カ月後の12月から臨時議会が開かれる。しかし、これがすんなりと決まったわけではなかった。高橋亀吉の『大正昭和財界変動史』によると、こんな具合...

 この復興復旧計画の実施は、立案者たる山本内閣が12月27日「虎の門事件」*2で倒れ、後継の清浦内閣は衆議院で多数をかち得ず、(大正)13年1月31日、衆議院を解散したが、総選挙の結果敗れた同6月加藤高明内閣の成立となった。このようなわけで、震災復興復旧計画実施上最も重大なる時期たる13年1月以降6月の約半年の間は、肝腎の政府が半身不随状態に陥り、ために、計画の実施は少なからず齟齬を生ずるに至った。このため、財界は少なからぬ悪影響を受けた(略)

 うーん。昔話の他人事とは思えない。いまも一歩、間違えば、このときと同じような状況にある。衆院で多数が確保できずに総選挙をやっていたのだが、震災の後に...。半年の遅れは国会への予算案上程からで、震災発生から数えれば、9カ月後に予算が発動されたことになる。民主党自民党も歴史を勉強しておいて欲しいなあ。ただ、民主党は、この事実を自分たちの都合いいように利用しそうだから、そこがまた怖いなあ。私を捨てて、国難に向かって欲しいけど。
 で、この予算について高橋の本から引くと、予算は「帝都復興計画」と「震災復旧計画」に分かれる。創造と再建を分けているわけ。
その内容をみると...

★帝都復興計画
 1923年度以降27年までの5カ年継続事業
 総経費:5億7300万円、ほかに地方負担にかかる分:2億2400万円
★震災復旧計画(主に官庁舎、工場その他政府造営物の復旧)
 1924年度から8ヵ年の継続事業
 総経費:7億0500万円
★復興・復旧を合計した政府支出の震災関連予算
 総経費:12億7800万円、地方費予算:2億7300万円
 総計:15億5100万円
★財源
 約11億円の国債発行(うち5億5000万円は「国辱外債」といわれた悪条件の海外からの借款)

 震災の被害総額は45億7000万円(当時の通貨発行高は約11億円)という。後藤が構想した復興計画は壮大なものだった。この点について高橋は「帝都復興計画は当初後藤内相の手で総経費30億円以上の厖大予算が企図されたが、結局経済力の関係で約4分の1に圧縮されたのである」と記している。
 外債の発行は当時の日本の外貨準備と関係していたそうだ。第一次大戦で、主戦場の欧州と離れていた日本は戦争成金となり、外貨を貯めこむのだが、震災当時はすでにかなり減っており(統計以上は外貨があったが、借款の返済などを考えると、心許なかった)、加えて、復興のために資材の輸入で外画が必要なことを考えると、無理をしてでも外債で調達する必要があったという。
 いまの日本を見ると、無理に外債を出さなければならない状況にあることは幸福かもしれない。
【やぶしらず通信・関連ログ】
東日本大震災で「震災復興庁」創設構想。関東大震災の「帝都復興院」がモデルらしいが、当時も政争が...(3月22日) => note http://t.co/8Olbtd5

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*2:ウィキペディアによる「虎の門事件」解説 => http://t.co/uvHLKMA