吉田満「戦艦大和ノ最期」

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)

戦艦大和ノ最期 (講談社文芸文庫)

 戦争記録文学の傑作という評価は正しい。かなり以前、一度、読みかけたことがあるのだが、そのときは文語体が読みにくく途中で挫折してしまった。しかし、今回は一気に読み終わった。むしろ文語体でなければ、これは書けなかったし、これほどの余韻は残さなかったと思う。筆者の吉田は文語体を採用した理由について、あとがきで、こう書いている。

しいていえば、第一は死生の体験の重みと余情とが、日常語に乗り難いことであろう。第二は、戦争を、その只中に入って描こうとする場合“戦い”というものが持つリズムが、この文体の格調を要求するということであろう。

 なるほど。確かに敗戦直後、奇跡的に生還した大和の乗組員が、まだ記憶も生々しいときに、これを書いているわけで、文体によって距離を置く必要があったのだろう。その文語体によって、この作品は、近代日本の象徴といえる戦艦大和の死を記録している。大和の沖縄海上特攻自体が、軍事的というより、日本海軍のシンボルとしての敗北の儀式であり、それは近代日本の敗北の象徴でもあったのだと改めて思う。そして、この敗北の構造はいまの日本でも変わらないように思える。戦艦大和特攻の意味に関する白淵大尉を自分自身で、こう総括したという。

 進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘スレテイタ 敗レテ目覚メル ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ

 この言葉を戦後、日本銀行に勤めた吉田満はどのような思いで、心に抱えていたのだろう。特に復興、高度成長を果たした70年代以降に。
 もう一つ、この本を読んで思うのは、人間の生と死を分かつものは、ほんの偶然に過ぎない。戦争では、それが露骨に出る。その時代を生きた青年士官や兵卒ひとりひとるの描写も含め、戦争文学の傑作である。