是枝裕和『しかし...−−ある福祉高級官僚 死への軌跡』

しかし…―ある福祉高級官僚 死への軌跡

しかし…―ある福祉高級官僚 死への軌跡

 「そして父になる」の是枝裕和監督がテレビのドキュメンタリー作家時代に手がけた、水俣病問題を担当する環境庁局長の自殺をめぐるルポルタージュ。是枝監督が出演した対談番組で、この話をしていて、興味を持って読んでみる。重い1冊。事件が起きたのは1990年のことだが、ここで描かれている問題は現代に通じるものがある。公益のために官僚を目指した人物が直面する理想と現実、組織と個人、環境政策をめぐる政官財それぞれの圧力、企業を規制する政策に対する御用学者やメディアのキャンペーン、政策よりも省益が優先される官僚ギョーカイなどなど。学者まで動員して水俣病の企業責任を否定し続けた経済界と通産省の動きは原子力ムラの原理を思い起こさせる。また、生活保護の不正受給キャンペーンもメディアの古典的手法で、肝心の弱者の自立支援をどう進めていくべきかという社会政策がおざなりにされていく様も今と変わらない。事件から四半世紀近くがたとうとしている今も日本は変わっていないのか、と思わせるものがある。
 ただ、是枝監督らしく、問題を声高に主張するのではなく、夫婦や家族との日常も描きながら、ひとりの官僚の死への軌跡を静かにたどっていく。社会に対しても、組織に対しても、みんなに対して誠実であろうとすることで引き裂かれていくのだなあ。本のタイトルとなっている「しかし...」というのは自殺した局長が少年時代に書いた詩。その「しかし」を言えなくなっていくのだなあ。そして「しかし」の思いを持った人が組織から排除されていくと、最後は「しかし」とは言わない人が集まった、省益重視の純化した官僚集団になっていくのだろうなあ。疑問を持った者は「負け組」とされてしまうみたいな...。ともあれ、現代も続く様々な問題を考えさせられる本。
 この本、「官僚はなぜ死を選んだのか」というタイトルで文庫本にもなっている。