司馬遼太郎『世に棲む日日』を読む−−革命と狂気、そして集団的発狂

 NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公は吉田松陰の妹で、今年は松下村塾が再び、注目されているが、そんな折、Kindleの日替わりセールに、個の本が出てきたので、Kindle版を読み始める。この小説、吉田松陰を主人公にしていることは知っていて、読みたいと思っていながら、読んでいなかったのだが、これが面白かった。前半は吉田松陰、その後は高杉晋作が主人公になるのだが、ふたりとも名前は知っていて、駆け足の教科書程度の知識はあるものの、詳しくは知らなかった。二人を中心に描かれる幕末の長州の政治・社会状況は面白い。そして、司馬遼太郎という人は、なぜ日本が、大東亜戦争(太平洋戦争)へと暴走していったのかを探求していったのだな、と思う。
世に棲む日日(二) (文春文庫) これを読んでいると、革命は「狂」気から生まれるということ。そして「狂」が社会を変える思想を生み出し、人を革命的行動へと駆り立てるのだが、狂気が集団へと広がると、それは、個人の思想を超えた集団的発狂とも言える暴発へとつながる。吉田松陰の生んだ思想が長州を暴発させ、血で血を洗う内部抗争と藩崩壊にまでつながりかねない過激な尊皇攘夷活動へとつながっていく。このあたりの運動のエネルギーは、昭和維新を叫んだ陸軍若手将校たちの行動にかぶさってくるし、正義を叫ぶ若者に寛容であったことが運動を過激化させ、さらに、ある段階を超えると、秩序維持のために弾圧するという構図も幕末と昭和は重なる。司馬遼太郎がそういう視点で書いていることもあるけど、昭和維新の原風景として幕末の長州に見ているのだなあ。
 吉田松陰がなぜ、米国に密航しようとしたのか、今ひとつ、わからなかったのだが、その理由も読んでいて、わかった。攘夷の実現には、まずは敵を知ることだったのだな。そして、吉田松陰の純粋さは一方で、長州が松陰の才能を愛し、寛容だったことが影響しているということもわかる。大体、国禁を破って密航を企て、罪人になり、謹慎処分になった後も、塾(松下村塾)を開くことが黙認されていたのだから。このあたりは長州独特の風土かもしれない。
世に棲む日日(三) (文春文庫) 高杉晋作は、革命の狂気を持ちつつ、集団的狂気を避けながら(逃げながら)、革命を実行していった人物といった感じ。過激派のリーダーでありながら、集団的狂気が極端にまで走ると、出奔し、その場にとどまらないし、行動もともにしない。集団的発狂の一派から何度も生命を狙われ、そのたびに逃げている。戦わずに、逃げる。藩政府に対しても、攘夷派に対しても、その距離の置き方は絶妙でもある。ただ、革命の勝負どころには必ず登場する。しかし、この人、今の視点で見れば、テロリストだなあ。米国公使の暗殺を計画したり、英国領事館を焼き討ちしたり、その行動は現代の尺度では完全なテロリスト。社会不安を起こすことで、政府(当時は幕府)を窮地に追い込もうというのだから、まさにテロリスト。この行動原理も昭和のテロに反映して言えるのかもしれない。幕末の歴史的記憶が鮮明な間は案外、テロに対して日本社会は寛容だったのかもしれない。今じゃあ、このあたりのことはわからないなあ。
 井上聞多山県有朋というと、どうも明治維新後の悪人的なイメージがあったのだが、幕末の長州の革命運動の中では、やはり大きな役割を果たしていたこともわかる。人間はそのときそのときで評価は変わるなあ。司馬遼太郎は、こんなことを書いている。

英雄とはその個人的資質よりも、劇的状況下で劇的役割を演ずる者をいうのである。

 その意味では、井上聞多山県有朋も英雄であった瞬間があったのだなあ。
 ただ、誰もがいつまでも英雄でいられるわけでもない。こんな言葉も...

人間というのは、艱難は共にできる。しかし、富貴は共にできない。

 勝つと人間はおかしくなっていくのだなあ。
世に棲む日日(四) (文春文庫) 時代を大きく変えるのは狂気なのかもしれない。300年続いた幕藩体制を否定したわけだから、常識の世界から出てくる発想じゃない。狂気があって、それが時代を覆い、社会を狂わせ、無惨で不要な血も流しながら、江戸から明治という政治・社会・産業・文化革命を実現したんだろうけど、NHKのドラマになると、このあたりの狂気はきれいに脱色、漂白されて、青春ホームドラマになってしまうんだろうか。松下村塾を学園モノにしてしまうんだろうか。幕末に倒れた松下村塾のメンバーは少なくないし、生き残った者たちも維新後、敵味方に分かれ、反乱を起こして維新政府に処刑された者もいる。結構、血なまぐさい歴史だけど。