吉田豊編訳『商家の家訓』

商家の家訓 (1973年)

商家の家訓 (1973年)

 「家訓って面白いねえ。長い歴史を持つ老舗の家訓というのは、きっと何かがあるんだよね」と言う人がいて、それで読んでみたのだが、たしかに、家訓は面白い。小難しい経営書やトレンド的なビジネス書を読むよりも、江戸時代の商家の家訓を読むほうが、現実のビジネスの役に立つ。というか、昔も今も、商売の真髄というものは変わっていないのかもしれない。ビジネス書1冊分の中身が集約されているような家訓もある。この基本原則に従って、しっかり商売をしていれば、成功するだろうな、と思わせるものがある。先祖代々受け継ぐ商売繁盛マニュアル的な意味合いもあったのだろう。この本では、三井、住友、鴻池をはじめ、いくつもの商家の家訓が紹介されているが、現代語訳つきというところがいい。当時の文章のままだと、やはりつらい。
 家訓を見ると、みんな家の存続を基本にしているから、結構、実力主義で、自分の子どもでも自分たちの商売を熱心に勉強しないものは隠居させろ、みたいな話もあるし、年齢はある程度重視しつつも、昔からいる者、新参者、別け隔てなく実力のある者を引き上げろ、という記述もある。商売だけではなく、食生活に至る規則まであり、ともあれ、どの家訓も読んでいて、飽きない。早寝早起きの奨励(そのほうが光熱費の節減になると...)とか、宴会には行くな、とか、ピューリタン的といってもいいかもしれない。
 さまざまな家訓で共通していたことのひとつは、武士は禄があるから、何もしなくても食べていけるが、自分たち商人は、働いて、儲け続けない限り、生きてはいけないのだと、まず記しているところ。武士を官僚と置き換えてみると、民としての心構えもできてきます。この精神が日本の資本主義と経済成長をつくってきたのだな。
 で、家訓のなかから、いくつか印象に残ったものを抜書きすると。まずは「島井宗室遺書」から一節。

 『徒然草』にも、すごろくの達人の心得として、「勝とうとして打ってはならぬ、負けぬように打て」と記されている。(略)まず大損を受けたときの用意・対策を、日ごろから考えておくことが第一である。すごろくの達人の教えと思い合わせるがよい。

 このあたり現代のファンドマネージャーの話みたい。負けないことが肝要。
 あと、江戸時代でもこうであったのかという人事の要諦。以下、三井高平(宗竺)による「宗竺居士家訓」から

 賢を挙げ、能を選び、以て其の長所を利用すべし。須(すべか)らく老朽を淘汰して、新進の人物を採用すべし。

 江戸時代の商家が実力主義であったことが分かる。単純な年功序列ではなかったわけだ。この家訓では、こんな一節もある。

 己れ其の道に通ぜざれば他を率いること能わず。宜しく子弟をして小僧の執るべき事務を習熟せしめ、漸を追うて其の奥に達する時は、支店に代勤して実地に当たらしむべし。

 事業を知らないものが、社員を率いることなどできるはずはない。業務内容はすべて理解しておけ、というわけで、バカ社長をつくるな、ということは昔から企業存続の基本だったのだ。一族に対しても厳しい。こちらは現代語訳で...

 一族の者はたがいに戒め合って、過ちを犯さぬように努力せよ。もし、不都合な行為をあえてするような者が出た場合には、一族で協議し、ただちにこれを処分せよ。

 同族経営が陥りがちな甘さ、放埒も昔からのものだったのだな。そして、決断力。

 商売は決断力を最も必要とす。仮令(たとえ)一時の損失を忍んで見切るとも、後日に至ってより大なる損耗を醸(かも)すに勝る。

 いわゆる「見切り千両」。この三井高平(宗竺)による「宗竺居士家訓」は参考になるところが多い。
 年功序列じゃない、というのは三井だけではなくて住友も同様。泉屋利兵衛(住友友俊)の「住友総手代勤方心得」から現代語訳で。

 幼少のときから勤めてきた手代たちについては、重い役目を申しつけてある。しかしながら、それにふさわしくない者については、重い役を与えることはできぬゆえ、油断することなく勤めるように。
 幼少のときから勤めてきた手代、近年雇い入れた手代ともに、忠節を尽くして勤める者は、新旧の区別なく用いるゆえ、たがいに注意し合って勤めるように。
 近年になって雇い入れた者についても、りっぱな勤務ぶりであれば、幼少のときから勤めてきた手代と同様に、身分を引上げて使用することになるゆえ、大いに努力すること。

 日本企業の一社奉公、年功序列、新卒純血主義いずれも日本古来のものではなかったことがわかる。成長する企業は江戸時代から実力主義だったのだ。
 次に、山中善右衛門宗利(三世 鴻池善右衛門)の「鴻池家家訓」から、こちらも現代語訳で。

 当主善右衛門はじめ子孫の人びとまでも読書につとめ、すぐれた先生がおられたならば自宅にお招きして講義を受け、手代の人びとまでもこれをお聞きするようにしたいものである。学問をすることも、業務のほかのつとめとして心がけるべきである。

 「学習する組織」をめざせ、というわけ。すごい先端的。一方で、「鴻池家家訓」では、縁組はできれば一族の中で、というようにも言っているから、このあたりは時代もあるだろうが、超保守的。
 で、相続に関することでは、大阪の薬種屋兼墨屋である若狭屋太郎兵衛の「若狭屋掟書」が厳しい(現代語訳で)。

 当家を相続する人物は、たとえ総領であっても当家を代表するのであるから、墨の商売に不熱心であったり、親に不孝であったり、身持ちが放縦であったりしたならば、家中で相談の上、名前を改めて隠居させるように。ただし、隠居した場合の生活費は、銀いくらと定めてあてがうようにすること。

 家(事業)の存続を血よりも重視する。落語で勘当された若旦那がでてきたりするが、家を中心に考えると、むしろ、そうなっていくのかもしれない。
 で、変わった家訓では、こんなものも。関西の豪商、二世・伊藤長次郎の「伊藤家家訓」から。

 女の美なるは傾国の端なりと云へり、依て女房は美女はわるし、心ばえの宜敷(よろしき)を吉とせよ。又た姑に似た嫁が来ると云ふ。左(さ)すれば代々に悪方なり、依而(よって)きりよう好みすな。

 美女は国を滅ぼすもとになるから、美人とは結婚するな。気立ての良いのにしろと。では、気立てが良い美女がいたら、どうかと思うのだが、姑に似た嫁が来るという話から、美人と結婚すると次も美人ということで、その美人はどっちかわからないという感じで、ここでも重ねてのダメ出し。子孫たちは納得したのかどうか。あまりにも美人だと仕事に手が付かなくなるというのもわからないではないが、この人、何か女性で痛い目を見たのだろうか、とも思ってしまう。ここまで家訓で書くか、という気も。で、この伊藤さんは苦労人らしく、こんな一節も。

 四十歳迄の無事仕合(しあわせ)は役に立たず、若き時は難儀して、老いては仕合が大に吉。依而(よって)出家も武家も、難儀致(いたし)た程大徳(だいとく)なり、末を思ふてシンボせよ。

 相撲じゃないけど、「辛抱、辛抱」。で、幸福(仕合)について、こちらは現代語訳で...

 多くの人は、仏法の修行もせねば、仕事に励みもせず、この世でもあの世でも楽をしようと考えている。それだから、どちらの願いもかなえられないのだ。
 しあわせとは、努力と辛抱の結果と知れ。それ以外にはしあわせも幸運もない。

 なるほど。まさにマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」のようです。で、伊東家の家訓には、こんなものもある。

 きたなく働いてきれいに食えということばがある。牛馬の糞を手でこねるのも家業ならば一生けんめいやれ。また、きれいに食うとは、いんげん豆の一勺(しゃく)でも盗んだ者物は食うなということだ。

 倫理の大切さだな。この家訓、ともかく贅沢や喧嘩の禁止にいたるまで微に入り細に入り生活指導しているのだが、こんな一節もあった。

 新しく開墾した水田、または塩田は、津波の被害を受けるおそれがあるから買ってはならない。

 日本で本当に怖い災害は昔から津波だったのかもしれない。地震、台風、火事に比べて発生頻度が低いので、つい津波の怖さは忘れてしまいがちになる。
 明治の富豪、諸戸清六の15カ条の遺言は「時間は金」に始まり、どの項目も面白い。その中から特に選ぶと。

 顔をよくするより金を儲けよ。金儲かり家富まば自然と顔もよくなる。
 何処(どこ)までも銭のない顔をせよ、銭のある顔はせば贅費(ついえ)多し、仮令(たとえ)銭なき顔をして人に笑はるゝこともあるも、後日には誉められる。
 一銭の金を骨折って儲けよ。楽して儲けた金は落し易(やす)し。
 馬鹿になれば悧口(りこう)、悧口になれば又た馬鹿、馬鹿になつて物事を尋ね、馬鹿になつて商売せよ。
 出来るだけ人の下風に立ちて、頭を下げる者は必ず勝を占む。
 二年先きの見留(みとどめ)を付くべし、マグレ当たりにて儲けし金は、他人の金を預かったのと同じことなり。

 こんな具合。家訓は本当に面白い。
プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)